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【日本の歴史】明治維新150年琉球王国の悲劇

【日本の歴史】明治維新150年琉球王国の悲劇
こんにちはワカマツです。こんにちは。
今年は維新150年を迎えたということで、各自治体も色々な取り組みを行っているみたいですが、例えばアメリカやイギリスみたいに国を挙げて祝うかといえば違いますよね。
では実際、国民のどれだけの人がこの維新から150年ということを知っているかとなると、たぶんそう多くはないと思います。

 

幕末を駆け抜けた日本の近代化に大きく貢献した先駆者、坂本龍馬・高杉晋作・大隈重信・西郷隆盛と挙げれば切りがありません。
幕末に関しては多くの歴史ファンがいると思いますが、当時世界から見て日本がどういう位置にあったのかを、沖縄の歴史の中で見ていきたいと思います。

 

🔶明治維新150年を迎えた日本

明治維新150年式典

 

明治維新150年を祝う政府の記念式典が23日、東京・永田町の憲政記念館で開かれた。10月23日は元号が慶応から明治に改められた日にあたり、与野党の国会議員や各界の代表者ら約350人が出席しました。

 

安倍晋三首相は式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」と強調。そのうえで「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べました。

 

佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇と香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった。宮内庁は「政府からお声がけがなかった」(西村泰彦次長)としています。

 

共産党は「明治150年の前半は侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史。丸ごと祝い、肯定するような行事には参加できない」(小池晃書記局長)として欠席しました。

 

実際、この式典が行われたことを知っている方はよほど興味がない限り、または、たまたまニュースなどで見ない限り知る方は少ないと思いますが、共産党の見解もどうなのかなと考えさせられますね。

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タイを除けば、日本はアジアで唯一、西欧の植民地化を免れた国です。

 

明治維新のおかげで、日本は属国にならずに済んだだけではありません。
経済的にも繁栄しました。さらに1868年の「五箇条の御誓文」によって、封建主義は終わりを告げ、身分制度から解放された国民は職業の自由を手にします。
大久保利通、福沢諭吉、大隈重信といった明治の指導者はやはり真のヒーローだと、私は思います。

 

■「琉球処分」とは!?

●琉球王国の概要

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。

当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言: ルーチュークク)と称していました。

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治しました。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいいます。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれていました。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国でしたが、隣接する大国、明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たしました。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られています。

●琉球処分の概要

 

琉球・沖縄史研究における時代区分では、「琉球処分」(廃藩置県)による琉球藩(琉球王国)の廃止と沖縄県の設置をもって近代沖縄の幕開けとされています。
日本編入以前の沖縄は、実質的には薩摩藩(鹿児島県)の支配下にありながら、形式的には琉球王国として中国との冊封・朝貢関係を維持する日清両属という位置にありました。

 

近代沖縄の嚆矢となる琉球処分とは、狭義には1879(明治12)年の廃藩置県をさしますが、広義には1872(明治5)年の琉球藩設置から、1879(明治12)年の沖縄県設置を経て、翌1880(明治13)年の分島問題の発生と終息 2にいたる8年間の時期、すなわち明治政府のもとで沖縄が日本国家の中に強行的に組み込まれる一連の政治過程」をいいます。

 

欧米列強の進出の中で中国(清王朝)を中心とする東アジアの国際秩序が崩れる中、近代国家の建設を始めた明治政府は、国境の画定に乗りだします。
日本と清国の双方に属する形で独立を保ってきた琉球王国を解体し、日本に組み込んだ「琉球処分」は激しい抵抗の中で断行されたということです。

「琉球処分」に至る経緯

 

1429年に成立した琉球王国は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に薩摩藩の侵攻を受け、従属化に置かれていました。
一方、中国皇帝に琉球の王と承認してもらい、貢物を納める冊封・朝貢は、王朝が明から清に代わっても続いていました。

 

琉球の「両国体制」は、対中貿易のため薩摩藩にも好都合でしたが、薩摩の侵攻は琉球が日本に併合されていくプロセスの始まりでもありました。

 

幕末以来、欧米列強から相次いで開国を迫られた琉球は、各国と修好条約を結びます。琉球侵略の危機感を抱いた明治政府は、領有権を主張する必要性から琉球の内国化に踏み切ります。明治5年(1872年)布石として国王・尚泰を琉球藩王に封じ華族としました。

 

政府が琉球の負債を肩代わりするなどの措置もあり、長年の薩摩藩への貢納で財政難にあえぐ琉球側は仕方なく受け入れます。

 

台湾に漂着した宮古島の船の乗組員らが先住民に惨殺される事件があり、政府は明治7年(1874年)、台湾に遠征軍を派兵。殺された琉球人を「日本国属民」とし、併合の既成事実化を進めました。

 

明治政府は処分官として松田道之を琉球に送りました。松田は「近代的な合法性において平和的に処理しよう」と考え、意気揚々と琉球入りした。

 

清国への朝貢停止や明治の年号の使用、軍の駐留などを次々に通達しましたが、琉球側は清国との断交を「五百年来恩義アルニ今コレヲ絶ツトキハ自ラ信義ヲ失スルノ道理ニシテ世界ニ対シテ恥ツヘシ」と強く拒みました。

 

感情を表に出さずに対応の先延ばしや体制維持を繰り返し訴える琉球側の態度に苛立ち、ついに武力制圧に乗り出します。
明治12年(1879年)3月27日、警察官や軍隊を率いて首里城に乗り込み、琉球藩の廃止を通告しました。ここで「沖縄県」が設置され、琉球王国450年の歴史は幕を閉じました。

 

 

🔶琉球王国まとめ

 

武器を持たない琉球はそういう戦い方しができなかったろうと思います。そうさせたのは弱者のエネルギーであり、日本政府が国策を頭ごなしに押し付けてくる構造は今でも変わりません。

 

この事件によって琉球から清国へ大勢の亡命者が出ました。当時清国にこの日本政府のやり方を訴えて、清国も日本政府に対して抗議をしましたが、弱体化した清国も勢いのついた日本政府になすすべがなかったのでしょう。

 

果たして分割を選ぶか、それとも一体化を選ぶかはそれぞれの意見があると思います。ただ歴史的観念から見ると一体化を保った意義はあるのかもしれません。なぜなら、それがなければ確実に欧米諸国から植民地化されていた恐れがあるからです。

 

もしかしたら当時の琉球が、欧米諸国に植民地化されていれば、太平洋戦争は起きなかったかもしれません。ただそうなると今の日本(民主化された資本主義社会)はなかったでしょう。

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現在の八重山諸島は日本の防衛の要と言えます。
この「琉球処分」の是非を問うてもしかたないと思いますが、今までないがしろにしてきた、領有権問題については、はっきりと主張していかなければならないでしょう。
今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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