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【太平洋戦争】日本のアメリカ本土攻撃

【太平洋戦争】日本のアメリカ本土攻撃

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

前回は、太平洋戦争シリーズで「戦艦大和」の砲塔について書きましたが、今回もその流れとなる大日本帝国の、アメリカ本土攻撃作戦について書いていきます。

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🔶アメリカ本土攻撃の意図

■ちまちまとやり続けたアメリカ本土攻撃

 

開戦の年の正月、連合艦隊司令長官「山本五十六」は、笹川良一に宛てて「今の為政者たちは日米関係を改善する熱意を欠けているが、戦争になった場合、ワシントンに乗り込んで米国を降伏させるだけの自信と覚悟があるだろうか」といった趣旨の手紙を送り、日米戦の成算が少ないことを予見しています。

はたして戦争が始まると、アメリカが国力の差に物を言わせて、B29などを駆使し日本を焦土と化したのに対し、日本はワシントンに乗り込むどころか、上陸の手がかりさえつかむことができませんでした。

しかしながら、日本がアメリカ本土を攻撃したことがまったくなかったわけではありません。

少なくとも二つの作戦を実施しており、また、驚くべき規模の作戦構想も持っていました。

実施した作戦の一つは、潜水艦による攻撃です。昭和17年2月24日、「イ17潜」はカルフォルニア州エルウッドの油田を14cm砲で砲撃(17発)しました。

ついで6月21日には「イ26潜」がカナダのバンクーバー島の無線羅針局を砲撃(17発)、翌22日には「イ25潜」がワシントン州アストリア港を砲撃(20発)した。

これらの事実を参考にして、アメリカの喜劇映画「1941」(S・スピルバーグ監督)がつくられています。

また、「イ25潜」は9月9日と29日の2回、零式小型水上偵察機一機を使い、オレゴン州の森林地帯に焼夷弾攻撃(各2発)を行っています。

航空機による唯一のアメリカ本土攻撃でした。

     

もう一つの作戦は、航空機を使わぬ空撃、聞いたこともあると思いますが「風船爆弾」(フ号作戦)です。

風船爆弾は、和紙をコンニャク糊で張り合わせて作った直径10メートルの風船に水素ガスを詰め、爆弾・焼夷弾をつけたものでした。

これを千葉県海岸から飛ばすと、気流に乗って東に向かう。夜間、気温が下がってガスが収縮し、高度が下がると時限装置が作動して、おもりが一つ落ち、風船はまた浮上する。

こうして3日ぐらいでアメリカ本土に達し、そこで爆弾が炸裂する仕掛けになっていました。

本格的な攻撃は昭和19年から20年にかけて実施されました。

爆弾は確認されただけでも285個がアリューシャンからメキシコの間に達し、各地で山火事などを引き起こしたほか、ピクニックに出かけた若い牧師夫婦と教区の子どもたちが、この爆弾のせいで犠牲になっています。

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■ 夢の坩堝と化したアメリカ本土攻撃

以上は現実に行われた作戦ですが、他に不発に終わった雄大な作戦が二つありました。

一つはパナマ運河攻撃作戦で、これは次のような事情から計画されました。昭和20年初頭、ヨーロッパの戦局は最終段階に入り、ドイツの敗北が決定的になっていました。

したがって近いうちに大西洋方面にいる連合軍艦船が太平洋に進出してくるだろう。そうなる前にパナマ運河を破壊できれば、多少の時間稼ぎなるし味方の士気も上がる。

そこで選ばれたのが、当時世界最大の潜水艦「伊400」と「伊401」(全長122メートル・排水量6560トン・水上攻撃機「晴嵐」3機搭載)および「伊13」・「伊14」である。

作戦は、これらに積んだ10機の「晴嵐(せいらん)」で、運河水門を爆撃・雷撃するというものでした。

しかし戦局は悪化の一途をたどり、パナマ運河より、南太平洋にいる米機動部隊を叩く方が、より現実的であるとの意見が強くなったため、この作戦は中止されました。



■超大型戦略爆撃機「富嶽」

もう一つの作戦計画は、新たに開発する超大型爆撃機で日本から直接、アメリカ本土を爆撃するというものでした。

この作戦は昭和17年末に、中島飛行機(現、富士重工業)の創立者、中島知久平(ちくへい)出したアイデア(Z計画)に基づいてたてられました。

使用する新作機「富嶽」の性能は、全備重量160トン・全長46メートル・5.000馬力エンジン6基・航続距離19.400キロ・爆弾搭載量20トン(B29の5倍)と予定された。

当時ではもちろん世界最大の戦略爆撃機でした。

ところが、この計画に参加した陸軍と海軍の間で、新作機の性能をめぐって意見が衝突した。

もともと意見がかみ合わなかった陸軍と海軍だが、戦局が悪化するにつれて作戦失敗の原因の擦り付け合いが多くなり、大日本帝国軍としての一括した作戦を取れないのが現実であった。

軍需省は同様の研究を川西飛行機に命じた。この混乱ですべての着工が遅れてしまい、ようやく妥協案が決まり作業が始まった。

ところが前例のない超大型機であるだけに、気密室の設計、重量の軽減方法、着陸装置の開発など、未解決の問題が山積みしており、肝心の5.000馬力のエンジンの開発にも失敗した。

そこで開発は縮小され、エンジンも3.000馬力になった(このエンジンは終戦時、羽田で廃棄され約30年ほど前に発見されている)。

このように作業が延び延びになっているうちに、昭和19年7月になりサイパンが陥落した。

ここに至って軍はようやく、この計画が日本の国力と技術力が乏しいことを理解し、実現不可能であると悟り、その計画の中止を決めたのである。

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🔶太平洋戦争がもたらした悲惨な思考とまとめ

国力と技術力、どちらをとってもけた外れに違っていたアメリカと日本、これはこの当時から誰もが理解していたはずです。

精神論だけではやっていけない現実を、まざまざと見せつけられた戦争でした。

苦し紛れに何かにすがるように実現不可能な事項にのめり込んでしまう現実、これは現代社会でも変わっていません。

日本的であるがゆえに起こる間違った戦略、先人の知恵ではないが、日本の歴史を振り返り、少しでも現代の社会にいかしていただきたいものだと思います。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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