google-site-verification: google7d63d4ae4f776a04.html

【日本の歴史】ウソのようなホントの話(古代編1)

【日本の歴史】ウソのようなホントの話(古代編1)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

ウソのようなホントの話」というカテゴリー第一弾として、書いていきます。歴史物もあまり難しいことばかり書いても面白くないと思うので、こういう面白い裏話もいいのではないでしょうか。

🔶大便を我慢して出雲から播磨まで歩いた大国主命

『播磨国風土記』に面白い話が載っていました。大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)とが言い争いをした。

重い粘土の荷物を持って遠くまで歩いて行くのと、大便を我慢して遠くまで行くのとどちらが苦しいだろうかと。

大国主命は「大便をせずに行こう」と言い、少彦名命は「私は粘土の荷物を運ぼう」と言い、二人で旅に出かけた。

播磨国の埴岡堲岡(はにおか)(兵庫県神崎郡)に着いたとき、大国主命は「私はもう我慢できない」と大便をした。

すると少彦名命も笑って「ああ苦しかった」と言い荷物を投げ捨てたというのである。

この話から播磨の人々が出雲系の神々に親近感を持っていたことが伺えます。

播磨国風土記』にこの他にも多くの出雲系の神がみえることは、出雲を中心とする信仰圏が瀬戸内海沿岸にまで広がっていたことを物語っています。

■ミニ知識

大国主命
『古事記』・『日本書紀』などの神話に登場する国造りの神。小人の神・少彦名命とともに国土を造り固め、天孫降臨以前の地上を支配していたが、天照大神の孫ニニギノミコトを地上に降ろすにあたり、隠退して国を譲った。現在、出雲大社の中央祭神とされる。

少彦名命
大国主命と同じく神話に登場する神。親神の指のまたから洩れ落ちた神で、大国主命の国造りを助けたのち栗の茎にはじかれて常世の国へ渡ったとされる。酒造りの神、医薬神として信仰されてきた。



🔶狩りが苦手だった日本武尊

常陸国風土記』には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が妃の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)と、山に狩りと海に魚釣りの腕を競った話がある。日本武尊は野に行き、一日中狩りをしたが一匹の獲物もなかった。

そとて橘媛命は海に行き僅かのうちに多種多様の魚を採ったという。

この話が、山幸彦(やまさちひこ)・海幸彦(うみさちひこ)の話に似ている点に注目したい。

古代の日本には、二人の人物の一方が狩りに行き、一方が釣りに行ってその成果を競うという説話が広まっていたのであろう。

『常陸国風土記』は、その主人公をたまたま日本武尊としたのである。

ところで『日本書紀』は、籠坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)とが、狩りの獲物によって戦いの勝敗を占う祈狩(うけいがり)をした話を伝えています。

その話を考え合わせると、『常陸国風土記』の説話は、日本武尊の祈狩を記したものと思われます。

スポンサーリンク



■ミニ知識

日本武尊
『古事記』・『日本書紀』に登場する英雄。景光天皇の皇子小碓尊とされ、熊襲建・出雲建を討ち、さらに天叢雲剣を伊勢神宮から授けられて東征の途につき、蝦夷を征し、帰途の途中、伊吹山の悪神に祟られ伊勢の能褒野(三重県亀山市)で病に倒れて、白鳥に化したとされている。これは一人の英雄に仮託して、大和朝廷の全国統一を象徴的に扱ったものとされる。

弟橘媛命

弟橘媛(おとたちばなひめ)は、日本武尊(倭建命)の妃。『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。『常陸国風土記』においては、彼女は大橘比売命あるいは橘皇后、夫の日本武尊は倭武天皇と表記されており、天皇、皇后と称されている。

行方郡条に、「又、倭武天皇の后、大橘比売命、倭より降り来て、この地に参り遇ひたまひき。故れ、安布賀の邑と謂ふ」とし、倭武天皇が倭から降ってきた大橘比売命と安布賀の邑(現在の茨城県潮来市および同県行方市)で再会したことが、多珂郡条には、「ここに、天皇野に幸し、橘皇后を遣りて、海に臨みて漁らしめ、捕獲の利を相競はむと、山と海の物に別れて探りたまひき」とあり、倭武天皇が野に、橘皇后が海に別れて狩りを競い合ったことが記されている。

🔶美女の唾液を混ぜた古代の酒

万葉集』には、「君がため醸(か)みし待酒安の野に 独りや飲まぬ友無しにして」とか、「味飯(うまいい)を水に醸み成しわが待ちし 代(かい)はかつて無し直(ただ)にしあらねば」などの恋歌があり、古代の酒は醸し酒であったと知られる。

醸しとは、文字どうり口の中で噛むことである。古代人はたしかに米などを一度噛み潰し、唾液とともに吐き出し、それを壺などに入れて酒を造ったのであった。

「味飯を」とあるように、まず米など穀類を蒸す。ついで口に入れ「水に醸み成す」、つまり噛み潰して水状までにする。

すると唾液の中の酵素アミラーゼが作用して、米などの澱粉を麦芽糖に分解させる。

これをそのまま放置しておくと、空気中に浮遊している酵母菌がいつしかくっつき、麦芽糖が分解されていく。

麦芽糖はブドウ糖二分子の集まりであるが、酵母中のマルターゼと唾液の水分で加水分解する。

この結果、ブドウ糖に変化する。さらに酵母中のチマーゼの作用で自然発酵をとげ、アルコールと炭酸ガスが発生してくるのである。

酵母菌は20%以上のアルコール分があると生息できず、自然に発酵をやめるが、それは酸性度5~6、温度25~30度の好条件下でのこと。

放置した「醸し酒」では、せいぜい今日の甘酒程度の薄い酒しかできなかった。

これでは古代人は腹いっぱい飲まなければ、酔えなかっただろう。

こうした自然状態での発酵・醸造法は、なにも古代の日本だけで発見しえたことではない。東アジアなどの諸外国でも古くは澱粉質を含む穀類を噛んで、「醸し酒」を造っていた。

また、自然界でも猿酒の伝承があるように、猿でも同様なことができえた。自然の果実が熟みそれに酵母菌がついて発酵し、天然の果実酒を生じる場合があった。

縄文人も神に酒を捧げたが、その酒はこうした自然発酵にヒントを得た果実酒だったろう。

縄文晩期の遺跡からは、ガマズミ・カジノキなどの実が出土している。発酵しやすい果実を利用しての「木の実酒」を捧げたのだろうと推測されている。

ところで、こうしたことであれば美女が噛まずとも酒はできる。

しかし、むさくるしい野郎が噛んだ酒とわかったら飲む気がしませんよね。

これは古代も現代も考え方は同じだと思います。



■ミニ知識

日本では、紀元前1000年前後の縄文式竪穴から、中国では酒造りに用いられていた酒坑(しゅこう)が発見されています。

そこには、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギといっしょになって、エゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が発見されました。

米から造られた酒ではなさそうなので、日本酒の直接の祖先と言ってよいかは議論を待つところですが、日本における醸造の原初的な段階を物語るものとしてこれらの史跡も貴重であると考えます。

酵母は生き物であり、アルコールも蒸発してしまうものであるから、従来の考古学的手法ではあまり日本酒の起源に関する研究は進んでいません。

古墳時代中期以降(5世紀-)の遺跡からは楽器として使われたとも酒などの液体を入れたともいわれる須恵器の「はそう(はさふ、はぞう)」が出土しています。平城京跡地から出土した木簡にはさまざまな種類の酒の記述があるのはたしかですね。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

スポンサーリンク



※旅行に関するブログです。興味がある方は覗いてください。

※無料写真ダウンロードも開設しています。

※ブログ内の記事はこちらからどうぞ。