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【日本の歴史】ウソのようなホントの話(古代編2)

【日本の歴史】ウソのようなホントの話(古代編2)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

ウソのようなホントの話古代編」の第2弾として書いていきますが、古代も現代も同じ人間の考えること、また、行動を起こすことはほとんど変わっていないような気がします。

🔶「大悪天皇」と呼ばれていた雄略天皇

日本書紀』には、雄略天皇は何事も一人で決める性格で、しばし誤って人を殺したので「大悪天皇(はなはだあしくましますすめらみこと)と呼ばれていた記しています。

天皇が心を許した臣下は、史部(ふみひと)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいのはかとこ)だけであったといいます。

その二人はともに渡来系で、学問はあるが低い家柄の出身であるために差別を受けていた者であったと記されています。

雄略朝には平群真鳥(へぐりのまとり)が大臣、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)が大連の地位についていました。

しかし、『日本書紀』に見るかぎり、国政はおおむね雄略天皇の独断でによって進められており、真鳥や室屋には活躍の場が与えられなかったと記されています。

つまり、雄略天皇を「大悪天皇」とする評価は、一部の側近を重んじて有力豪族を避けた雄略天皇に対する平群氏・大伴氏・物部氏らの不満から作られたのであろうと推測されます。

■ミニ知識

雄略天皇
雄略天皇はなぜか生没不詳です。允恭天皇の皇子で、名は大泊瀬幼武尊。5世紀後半の天皇と目され『宋書』倭国伝に見える「倭の五王」の「武」に当るとされています。宗の順帝への上表文は有名ですね。



🔶雄略天皇の墓を掘り起こそうとした顕宗天皇

雄略天皇は、かって自分の皇位継承の競争相手であった市辺押磐皇子(いちのべのおしわりみこ)をだまし討ちにしました。

のちに、市辺押磐皇子の遺児の弘計王(おけのみこ)が豪族たちに迎えられ、即位して顕宗天皇(けんぞうてんのう)になるが、顕宗天皇は雄略天皇を深く憎んでいたといいます。

ある日、天皇は「だれか雄略天皇の御陵をあばいてまいれ」と命令しました。

天皇の兄の億計王(おけいみこ)(のちの仁賢天皇)は、その時自ら御陵を破壊する役目をかって出て、墓の隅の土を少し掘って帰ってきたといいます。

顕宗天皇が「なぜ、墓を完全にあばかなかったのか」と責めると、億計王は、「父の仇を討つといっていったん皇位についた者の墓を壊したら、必ずやのちの人々のそしりを受けるでしょう。

土を少し掘っただけでも父の恨みをはらしたことになりますよ」と言ったといいます。

この話は億計王を名君とする発想から作られたとする説が有力で、実際の出どころは、はっきりとはしていないのが現状ですね。

■ミニ知識

顕宗天皇
第23代天皇。父が雄略天皇に殺されたため、難を逃れて播磨に逃げ、牛飼いに身をやつしていた。

後に発見され、子どもがいなかった清寧天皇の皇太子に迎えられて即位、皇居を大和飛鳥八釣宮に定めたといいます。

仁賢天皇
安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠しました。

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称しました。

同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が執政しました。

翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年で崩御した。これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位しました。名君とされています。

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🔶天皇になることを恐れて行方をくらました倭彦王

日本書紀には、武烈天皇がはなはだ評判の悪い天皇であったと記しています。

武烈天皇が跡継ぎを残さず没したときに、朝廷の最有力者、大伴金村が仲哀天皇の5世にあたる倭彦王(やまとひろのおおきみ)を丹波から迎えて皇位につけようとしました。

しかし、倭彦王は、遠くに金村らの行列が来たのを見ただけで恐れてしまい、はねるようにしてはるかな山奥に逃げて行ったといいます。

武烈天皇がうまく国を治められなかったために、宮廷に不穏な空気が漂い、それを感じて倭彦王は姿を消したと、『日本書紀』は言いたいらしいですね。

そして、倭彦王が姿をくらましたのち、応神天皇の5世の孫にあたる男大迹王(おおどのおおきみ)が越前から大和に入り、即位して継体天皇となり善政を布いたといいます。

倭彦王の話は、たぶん継体天皇が、自分の対立候補であった丹波の豪族を征して皇位についたことをもとにつくられたのでしょう。

■ミニ知識

倭彦王
『日本書紀』では倭彦王の出自について足仲彦天皇(第14代仲哀天皇)の五世孫とするが、具体的な系譜は記されていなません。

倭彦王は実在性の薄い仲哀天皇の後裔であり、かつ名前も「ヤマトヒコ」という普通名詞であることから伝承性の強い人物とされ、継体天皇擁立の伏線をなす伝承中の王と見られています。

この伝承には、仲哀天皇(第14代)五世孫という倭彦王を持ち出すことによって、仁徳天皇(第16代)から武烈天皇(第25代)の無嗣を確定するとともに、応神天皇(第15代)五世孫という継体天皇の正統性を確立する意図があったとされます。



🔶新嘗のよるに、男を家の外に出して「巫女」になった女たち

ひとくちに「衣食住」といいますが、衣住とは違い、食は常に新しい補給が必要で、何日も我慢できるものではありません。

古代人の食生活を支えた根本は稲でした。したがって、人々の関心は稲作の成功・収穫の豊作・安定によせられました。

稔は日照・風力・水量・気温・湿度などに大きく影響されますが、彼らに言わせれば、結局神の加護を祈ることで解決される問題であったということです。

その神は山に住み、春や秋の祭りの日だけ里に降りてきて人々の餐食を受け、やがて山に帰るものと思われていました。

雨が山に降り、山間から渓流を生じて里に流れてくるし、また風が山から降ろしてくるからでしょうか。

秋の穫り入れも終わり、やや置いて米粒中の水分も程よくなったころ、新嘗(にいなめ)が開催されます。

獲った新米を炊き、神に捧げて一年の多収と加護を感謝する行事です。(現在でも宮中で行われています)

この新嘗の夜には、一家の主婦・娘は皆神祭りする「巫女」になりました。

男子を外に出し、厳重な物忌みをして神を迎えたのです。

『万葉集』には、「だれぞこの屋の戸押そぶる新嘗に、我が背を遣りて斎(いわ)ふこの戸を」とあります。

また、『常陸国風土記』には、福慈(ふじ)神が新粟(わせ)の新嘗で物忌みをしてるからと、祖神尊(みおやのかみのみこと)の宿泊依頼を断ったため、祖神は親でも泊まれないのかと激怒し、以後福慈を夏にも雪が降り人々が登らぬ山にしてしまったという話が見られます。

この掟はかなり厳しく守られていたようですね。

■ミニ知識

新嘗祭
新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は宮中祭祀のひとつ。

大祭、収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝します。

宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われます。 また、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭といいます。

日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習がありました。

その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられています。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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