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【日本の歴史】ウソのようなホントの話(古代編3)

【日本の歴史】ウソのようなホントの話(古代編3)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

ウソのようなホントの話古代編の第3弾ですが、日本の歴史書の中で文献的にもっとも古いのは、712年に編纂された『古事記』です。

主に全国にあった各地方の『風土記』を集めて編集されたみたいですが、改ざんされたり、除外された部分もかなりあるので、つじつまが合わないということです。

🔶女が鳴らす弓の音を聞いて恐れた蝦夷の大軍

石碑

日本書紀』には、舒明天皇の時の上毛野形名(かみつげののかたな)の妻の武勇伝を記しています。

蝦夷(えみし)が反乱を起こしたので上野の豪族、上毛野形名がそれを討ちに向かったという記述があります。

ところが、蝦夷は意外に強く大敗してしまい、砦に逃げ込み、蝦夷たちは砦を包囲してしまいました。

そのとき、上毛野形名の妻は夫の剣をとって数十人の侍女を指揮し、さかんに弓の弦(つる)の音を鳴らせました。

蝦夷たちが弦の音を聞いて敵の軍勢は意外に多いと戸惑っているところに、上毛野形名が全軍を率いて討って出たので、蝦夷たちは逃げ散ってしまったといいます。

持統5年(691)に『日本書紀』をつくる史料とするために上毛野氏の「墓記(おくつきのひみ)」を出させていることからみて、その話は上毛野氏が伝えた先祖の自慢話であったらしいと推測できます。

■ミニ知識

蝦夷
蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読みました。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われています。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀です。

えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はありませんが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされています。

「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条です。

そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。

また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は、「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入墨(文身)をしていたことが分かっています。



🔶ホクロの位置や病名まで記されていた「大化の改新」の戸籍

古代の日本人は戸籍のことを「へのふみた」と呼んでいました。

それは、家(戸)のことを記した札という意味でした。もともと古代の戸籍は木簡(もっかん)とよばれる木片に書いた札で作られていました。

もっとも古い戸籍は欽明天皇の時に作られたといわれています。

天皇の命令で皇室領たる屯倉(みやけ)で働く田辺(たべ)の名籍(なのふみた)が作られたのがきっかけです。

「大化の改新」の時に、戸籍を整えようという命令が出ています。推古朝にようやく紙の国産化が始まりましたが、大化の改新の頃には、まだ紙は貴重品でした。

そのため、この時には田部の名籍のようなものを手がかりに、一部の先進地域だけで木礼を用いた戸籍が作られたということです。

そして、その戸籍が後のもののように詳しい記述をもつものであった可能性も高いですね。

すなわち、「大化の改新」の時に、農民の名前、年齢のみを記載した簡単な名籍にかわり、農民の家族関係や身体の特徴、場合によってはホクロの位置や病気の名称までも記した戸籍ができていきました。

■ミニ知識

大化の改新
大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革です。

改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっています。

この政治改革は、皇極天皇の皇居における蘇我入鹿暗殺により、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から始まりました。

当初、飛鳥から難波への形式上の遷都が行われましたが、改革そのものは天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進されました。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされています。

また「大化」は日本最初の元号です。この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされています。

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🔶「禁断の実」をかじった中大兄皇子

中大兄皇子

クーデターを起こし蘇我氏を倒した中大兄皇子(天智天皇)は、その後、幾度も機会があったにもかかわらず、自ら即位を敬遠してきました。一体それはなぜだったのか。

大化の改新後の保守派と改新派の権力の均等を図っていたことも考えられます。

また、天皇は祭祀に従事するが不執政であるという原則があったために、革新政治促進のために、皇太子に留まったという説もあります。

しかし、中大兄皇子が「禁断の実」である近親相姦を犯したため、即位への反対があったという説があります。

相手は同母妹間人皇女(はしひとのひめみこ)。孝徳天皇の皇妃です。

中大兄皇子は孝徳天皇し決裂し、母皇極上皇・妹の間人皇女や弟大海人皇子らを率いて難波から飛鳥の河辺行宮(かわらのかりみや)に遷ってしまいます。

実権もなくひとり難波長柄豊碕宮に取り残された孝徳天皇は、その時、皇妃の間人皇女に「鉗着(かなき)け吾が飼ふ駒は引出せず 吾飼ふ駒を人見つらむか」『日本書紀』、との歌を送っています。

逃げぬようにと首に鉗を嵌めて厩から出しもせずに大事にしていた駒なのに、どうして人がみてしまったのか。

すなわち、大切にしていたのに、間人はどうして中大兄皇子と心を合わせて大和へ去ったのか、ということですね。

「見る」という表現には男女関係の意があり、二人が行動をともにしていく姿に中大兄皇子と間人皇女の兄妹間の愛情関係を推測しているように受け取れます。

中大兄皇子が禁忌に触れた可能性はあるということです。

当時、同母の兄妹間の結婚は禁忌とされていました。允恭天皇の木梨軽皇子は、同母妹の軽大郎皇女と通じました。

それが占いで発覚し、皇女は伊予(道後温泉)に流されました。しばらくして木梨軽皇子も皇太子を降ろされたうえ伊予に流され、そこで二人で自殺したといいます。(『日本書紀』)

これについては、「道後温泉」の歴史の中でも必ず出てくる一説ですね。

中大兄皇子も発覚すれば、天皇への道が閉ざされ、奈落の底へ突き落されることもあったということです。

このことのために、宮廷内の即位の反対の声を抑えきれず、長く皇太子に留められていたという説もあります。

■ミニ知識

天智天皇
第38代天皇(在位:668年2月20日(天智天皇7年1月3日) – 672年1月7日(天智天皇10年12月3日))。

和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られています。

645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こします(乙巳の変)。

入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害しました。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行いました。

また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃したといいます。



🔶博打大好きの「天武天皇」

天武天皇

『日本書紀』には、天武天皇が、天武14年(685)9月18日に内裏(だいり)に廷臣を集めて双六などの博打をさせていたことを伝えています。

その日に、宮処王(みやところのおおきみ)らが衣と袴を与えられていますが、それは博打の賞品だったらしいのです。

7世紀後半に中国で大流行していた「双六」が日本に伝えられ、爆発的に広まったといわれています。

壬申の乱の時に黒雲をみて自らチクを用いて戦争の勝敗を占った天武天皇は、賭け事も好んだらしいですね。

しかし、天武天皇のもとであまりにも博打が広まり過ぎたため、天武天皇の皇妃であった持統天皇は、夫の没後、持統3年(689)に双六の禁令を出しています。

現代でいう、スマホゲームに夢中になる事と同じですね。

また、文武2年(698)には、博打を生業とする者を取り締まる命令が発せられています。

推測によると世間はよほどこの「双六」にはまったのでしょう。

■ミニ知識

天武天皇
生年不詳、天武15年(686)没。舒明天皇の皇子。兄である天智天皇の没後、その子の大友皇子と皇位をめぐって争います。

その壬申の乱に勝利して即位し、政治の中核に皇族を配置した皇親政治を始めて、強力な支配体制を確立しました。

律令制の導入に向けて制度改革を進めました。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業です。

道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した人物です。

その他日本土着の伝統文化の形成に力があったといいます。

「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われています。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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