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【大政奉還】徳川慶喜が返上したものは!?

【大政奉還】徳川慶喜が返上したものは!?

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

大政奉還は一般的によく知られている歴史上の史実ですが、一概に学校などで習ったことが正しいかといえばそうでありません。概要的にはわかっていても、その中身がまったく違う場合もあります。

では、徳川慶喜の真意は何だったのか、今回はその大政奉還について記していきます。疑惑に満ちた「大政奉還」、教えられている歴史的史実とは異なった意味合いが込められていたみたいですね。

🔶大政奉還の事実

■あくまでも委任された政権

慶応3年(1867)10月14日、徳川幕府第15代将軍徳川慶喜は、大政奉還の上表を朝廷に呈しました。

その中で慶喜は「皇国時運の沿革」について、保元・平治の乱を経て「政権」が武門に移り、さらにそれが徳川家に及んで二百年余り受け継がれたと述べています。

そして、「臣其職を奉ずといへども、政刑当を失ふこと少からず」と自身の非政を責め、「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公儀を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護せば、必ず海外万国と並立するを得ん」としたのでした。

ここにみえるように、慶喜は徳川家が受け継いできた政権を朝廷に還すという。しかし、それだけでは政権の内容は少しもはっきりしない。慶喜はこの時、将軍職を辞任したわけでもないのです。

将軍職の辞表は、その後10月24日に朝廷へ差し出したが却下されています。12月9日の王政復古クーデターで辞任させられるまで、慶喜はれっきとした征夷大将軍であったということですね。

だとすると、慶喜が還し、朝廷が受け取ったものとは一体どのようなものだったのか。



そもそも政権を朝廷に還すというからには、それは以前に朝廷から徳川家に委ねられたものでなければ、つじつまがあわないわけです。確かに徳川家の政権とはそういうものだとする考え方は、江戸時代の後半に現れ、幕末期には広くみられるようになっていました。

いわゆる大政委任論がそれですね。その意味で、大政奉還はこの委任論の上に乗ったものであったということです。しかし、それなら現実の徳川家の権力はどのようにしてできあがったのか。

徳川家は朝廷から政権を委任されることによって、江戸時代の日本を治めるようになったのかといえば、決してそうではなかったのです。

徳川家は松平氏を称していた三河の豪族時代から、戦国の動乱を通じてのし上がり、関ヶ原の合戦で豊臣方を打ち破って実力で天下を取りました。

家康が朝廷から征夷大将軍を任じられたことも、その結果であるにすぎません。

つまり、大政奉還が大政委任論の上に乗っているとはいっても、委任論そのものが観念の産物であって現実の裏付けがない以上、事態は一向に明らかではないのです。

このあたりのあいまいさは、慶喜自身にとっても同じことだったろうと私は思います。

大政奉還の上表を呈したことによって、自分の手中から何か失われる結果になるのかは、事態が具体的に進んでみないと彼自身もわからなかったと思いますね。

上表呈出の翌15日、朝廷は奉還を聴許するとともにご沙汰書を下し、同じに10万石以上の大名に上京を命じました。

それは後に1万石以上に拡大になっています。

その沙汰書では、国家の大事や外国関係の事件は「衆議を尽くす」こと、その他のことは「召の諸候上京の上、御決定これあるべく」、それまでは「まずこれ迄の通にて追って御沙汰に及ぶべく候事」とあって、またしても何やらあいまいなのだが、はっきりしているのは、「諸大名伺い・仰せいだされ等は、朝廷両役において取り扱う」となっているところです。

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■朝廷両役とは!?

朝廷両役」とは、議奏と武家伝奏を指します。つまり、徳川家がそれまで持っていた、諸大名にさまざまな命令を下す権限が、慶喜の手中から失われてしまったことを意味するのです。

それが政権を還したことになるかどうかは解釈しだいですが、この時、確実に朝廷が自分のものにすると明言したのは、この権限だけです。

それでは、この権限が徳川家から朝廷にすんなりと移せるかと言えば、そこはどうしても無理が生じますね。

徳川家が諸大名に命令できるのは、もともと両者の間の主従関係にもとずいているものであり、その関係は先にも触れたように、徳川家が戦国の動乱をくぐり抜ける過程で形つくられ、さらに二百十数年にわたって培われてきたものだからです。

そのことを裏付けているのは、朝廷からの上京命令に接した諸大名の多くが、上京を辞退し、与えられている官位を朝廷に返上しようとしたことです。そうすれば、彼らはもはや大名ではなくなってしまう。

しかし、自分たちはあくまでも徳川家の家臣という考え方であって、朝廷の臣下だったのではない、と彼らはこの時言っています。この言い訳は確かに筋が通っていますよね。



🔶その後の徳川家とまとめ

最後の征夷大将軍となった第15代当主・徳川慶喜は、大政奉還の後に征夷大将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し、謹慎しました。

さらに慶喜は隠居して、御三卿の一つ田安徳川家から徳川家達が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許されました。

第16代当主となった家達は、新政府により駿河・遠江・伊豆に70万石を改めて与えられて駿府(現: 静岡県静岡市葵区)に移住し、駿府の町を静岡と改名して静岡藩を立てました。

明治2年(1869)に家達は華族に列せられ、廃藩置県を経て、明治4年(1871)に東京へ再移住し、1884年(明治17年)には公爵を授けられて、徳川宗家は徳川公爵家となりました。

その後、家達は、明治時代の終わりから昭和時代の初めに至るまで、長らく貴族院議長を務め、嫡子の第17代当主・徳川家正は、戦後、最後の貴族院議長を務めました。

慶喜が「大政奉還」で朝廷に還したものは、このような意味と性格を持った、諸大名に対する命令の権限であったと思います。

それすら必ずしも実態を伴っていないのは、結局は「大政奉還」をとおして慶喜が本心では何を意図していたかにかかってくると感じています。

慶喜は、薩長が最終的な手段として武力討幕を進める中で、「政権を朝廷に帰し奉る」と宣言することによって討幕の危機からも身をかわし、さらには後に開催されるはずの大名会議で主導権を握り、ついには徳川家を中心とする、新たな政権を築き上げようと意図していたのであったと思います。

いわゆる新幕府ではなく、世界に通用する新政府という考え方をもっていたように思えてなりません。だからこそ、もともと徳川慶喜は、本気で政権を手放す気はなかったのでしょう。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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