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【日本の元号】災いから見る改元事情

【日本の元号】災いから見る改元事情

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

平成年間もいよいよ終わりが近づいています。残すところ4ヶ月余りですが、日本にとって元号は、まさに象徴的で存在感のある呪力にも勝るものであると感じます。

西暦だけにしてしまえば何も考えなくて済むのでしょうが、あえて東洋的存在価値の中でいうならば、日本創生神話から続く神道の象徴と言えるのではと思います。

さて、次の元号は何なのか、4月1日に発表になりますが、とても気になるところですね。

🔶災いから見る改元事情

皇室正月のあいさつ

■改元とは!?

明治の改元にあたって、「自今一世一元」とすると定められるまで、さまざまの理由をもって改元がおこなわれ、天皇一代の間に四つも五つもの年号が用いられることは珍しくありませんでした。

要するに、天皇が没するまでは元号は変えてはだめですよ、という意味であり、今回の即位と退位の件で大きく立ちはだかった要因のひとつにもなっていますね。

そもそも年号という制度は東洋独自のもので、漢の武帝の建元(西暦前140)に始まるものとされており、時間と空間のすべてを支配するものとされる皇帝の権威の象徴でもありました。

中国の諸王朝の支配者は、即位の年を紀元としてその幾年の年を数えることを習慣としていましたが、画期的な事件に遭遇した時に、紀元を改めて再び元年、二年、三年と数えることがありました。これが改元の起源です。

即位何年、改元何年という紀年法を下敷きに、その年紀に吉祥の言葉を冠したものが年号(元号)です。嘉語をもって年を呼ぶことによって、皇帝の不老長寿をことほぎ、天下万民の安泰を祈り、不吉を去り災難を避けようというものです。

一言でいえば年号は、「攘災招福(じょうさいしょうふく)」の呪術の一種である。その呪力が衰えた時、新しい力をえるために行うのが改元です。



改元は次のような時に行われました。

①代始改元

天子の治世の初めに改元する。中国では先帝の死後の翌年に改元する習わしであった。

②瑞祥改元

白雉や朱鳥、瑞雲など吉祥の出現した時、改元するものである。

③災異改元

日食・彗星などの天変、地震などの地異による災害消滅と縁起直しのための改元。

④革命・革令改元

辛酉(かのととり)の年は革命、甲子(きのえね)の年は革令がある不吉な年とされ、その凶運を避けるために改元する。

上記のうち、瑞祥改元は奈良時代に多く、災異改元と革命・革令改元は平安時代以降とみられる。

■天変による改元

天変を理由とした改元はかなり多いですね。

ところが天変の内容が明確にされていないのが大半です。

天変として考えられるものは、次のようなものがあります。

①日食

②彗星・流星

③惑星運動

④赤気(せつぎ)

⑤台風・洪水

①~③は天文現象ですが、④⑤は気象現象です。

しかし昔は天文と気象を、そう厳密に区分したわけではないから、これらはいずれも天変とされています。

天変の中で一番目立つ現象は日食です。日食は太陽が病にかかったもので、その光を浴びると毒気にあたるとされていました。

朝廷ではその日を廃務とし、天皇は幾重にも光を遮った室内に閉じこもるという習慣があったそうです。それにも関わらず、日食を原因とした改元はたった一例しかありません。

それは日食が定期的に回ってくること、予報が可能であったこと、そして日食の度に改元していたのでは、とても対応しきれないからという理由です。

日本の唯一の日食の改元は貞元(976)の改元で、これは前年天延3年(973)7月1日の日食によるもので、当年の内裏炎上と京都大地震も併せて理由に挙げられています。

この日食は、京都で100年ぶりに見られた皆既日食でした。当時の記録では「墨色の如く光無し、群鳥乱れ飛び、衆星悉く見はる」とか「辰より未に至り暗きこと夜の如し」などと記されています。

この16年前の天徳3年(959)にも皆既日食がありましたが、雨で見れなかったみたいです。もしこれが晴れていたのなら改元があったのかもしれませんね。



■惑星による改元

日食の次に印象的な天文現象である彗星の出現による改元も10回近くあります。彗星は箒星(ははきほし)と呼ばれていますが、悪星、凶星とされ、戦乱・飢饉・疫病の予兆とされていました。

しかし、これはあくまでも皇室内の考え方であり、庶民は彗星が現れると、その年は豊作になると、意外と楽観視しています。

彗星出現による改元の最初は永祚(えいそ)(989)で、これはハレー彗星出現によるものです。

このハレー彗星に関しては「旅ブログ」空のブログに記事として出していて、そこにも記載していますが、ハレー彗星についての最初の記録は『日本書紀』天武天皇13年(684)に見られ、以後、承和4年(837)、延喜12年(912)にも見えますが、改元はこの年が初めてですね。

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●「旅ブログ」空2018 

【ハレー彗星】次回はいつだ、1910年の大接近!

さて、永祚元年のハレー彗星は6月1日(989年7月6日)から7月にかけて、天の東あるいは西に連夜見え、長さは五尺ばかりであったと記録されています。

彗星出現による改元のうち、嘉永(1106)改元は、長さ十丈、なんと永祚の時に現れたハレー彗星の20倍の大きさで出現しています。

2度目のハレー彗星による改元は久安(1145)で、4月5日、東に出現、長さは1丈ほどで白色、6月になっても消滅しなかったと記録されています。

赤気の望見については、推古天皇28年(620)12月1日条以来、しばしば記録されています。その正体が何であるかはっきりしていません。

オーロラの場合も考えられますが、大流星群と思われるものもあります。赤気による改元は嘉応だけです。

惑星がお互いに接近した二星合、三星合による改元は、享徳(1452)の三星合、延徳(1489)の二星合があります。

前者事情はよく分りませんが、後者については当時の記録に大白(金星)が歳星(木星)に接近し、8月21日に改元しています。二星合や三星合は天下大乱の予兆とされていました。

その他、老人星の望見による改元があります。それは延喜(901)の一例です。延喜の改元はそもそも幸酉革命によるものですが、革命改元の前例が無かったために、老人星出現も引き合いに出されました。

老人星は南極老人星(カノーブス)とも呼ばれ、南半球では珍しくありませんが、日本ではごく稀に水平線上にわずかに見えるだけです。これは凶兆ではなく吉慶の予告とされていました。

■地異による改元

地異には地震・台風・洪水・飢饉・疫病・火災などが含まれ、それらは単独よりも複合して起きることが多く、改元の原因としても併せて挙げられる例が少なくありません。

また、兵乱は人災であるが、地異の一種として受け取られたと考えられます。

日本は世界でも有数の地震国ですよね。地異の大半は地震によるものだと考えてよいほど、地震を理由にした改元の例が多いです。

最古の例は天慶(939)ですが、大地震と関係しているものとしては、江戸時代の宝永(1704)があります。

元禄16年11月23日に江戸と東海道諸国にマグニチュード8.2の大地震があり、倒壊家屋2万以上、死者5千人以上もの被害を出し、小田原城も倒壊し、房総方面にも大きな被害をもたらしています。

翌年3月13日に宝永と改元されたが、これまで京都や関西の地震には、敏感に反応して改元したきた朝廷が、関東の地震によって改元するようになったことに時代の流れを感じさせますね。

地震による改元で最も話題となるのは、前回記事にした安政の大地震です。安政と改元したのに被害はひどくなっていたことが皮肉です。

1854年の4月に起きた内浦炎上、ペリー艦隊などの異国船の来航と6月の近畿地方の地震が理由とされました。

しかし、本当に皮肉ですよね。

改元直前に起きた南海トラフ地震、そして改元して一年もたたないうちに安政の大地震が起きるなんて、この年は自然災害の当り年だったのかもしれません。

こういった例は過去にもあります。

例えば永延3年(989)8月8日に彗星、天変、地震の災異を祓うために、永祚と改元したところ、それから5日後の8月13日の夕刻から夜半にかけて大風が吹き、宮中の門や回廊が多く転倒しました。

京中の民家も数多く転倒破壊され、加茂川の堤防が何ヶ所も決壊し、石清水、祇園その他の神社仏閣にも多大な被害が出ています。

また、諸国に洪水や高潮の被害があって、人畜の死亡が多く、「天下の大災、古今比ぶるなし」と『日本略記』は記しています。

さて、大風と記されていますが、かなりの降雨があったみたいで、おそらく台風であっただろうと考えます。

この災いを取り除くために翌年11月7日に正暦と改元されたから、永祚という年号はわずか1年3ヶ月たらずの短い寿命だったわけです。

この他、仁平(1151)、寛喜(1229)、正中(1324)などが台風による改元ですね。



■飢饉・疫病・干ばつによる改元

日照りによる改元は天徳(957)に始まります。

これは前年からの大干ばつによる飢饉に対応するもので、前年7月に村上天皇は日常経費を削減し、恩赦や調庸の免除を行い、東山・東海・山陽道の諸国に対して田租を免除しています。

9月には臣下の封禄を臨時に五分の一をカットする有様であったといいます。

年を越えては、4月に飢饉のために大和国の不動穀千余石を大寺に分配しています。

食料不足のために物価が高騰し価格を安定させるために常平所が設けられるという情勢でした。干ばつの改元は永観(983)、長保(999)などがあります。

飢饉は天災の結果もたらされるもので、したがって他の理由で改元され、飢饉を直接に理由として改元するものは少ないですね。

その中で源平の争乱の最中に行われた寿永の改元(1182)は疫病や兵革・三星合などを伴いながら改元の第一の理由として飢饉を挙げている珍しい例です。

この飢饉については『方丈記』にも述べられており、前年の養和元年以来全国的に飢饉に見舞われ、特に西日本の被害は膨大であったみたいです。

平氏が敗北したのは、主としてこの飢饉により兵糧が十分ではなかったとさえ言われています。

寛正(1460)飢饉を改元の理由とするもので、この時の飢饉は日本の歴史上最大と言われ「人の死する者三分の二に及ぶ」と記録され、京都だけでも8万人以上の人が犠牲になっています。

疫病の改元は「地異」の中では最も多いですね。天候不順や凶作が即疫病の流行に結び付くのは、医療の未発達の時代にはやむおえないことであったと思います。

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疫病の中でも最も恐るべきものは天然痘で、幾度となく大流行により大勢の人命が失われています。天然痘による改元の例は、疫病を理由とするものの、かなりの部分を占めていると考えられます。

意外なものは、長徳(995)の改元です。

前年正暦5年に始まった疫病は、九州から全国に蔓延し、その年の4月から7月までの間だけでも京都の死者は住民の過半数に達し、五位以上の貴族が67人も含まれています。

翌6年2月22日に改元されましたが、なお猛威はおさまらず貴族の間でも感染していきました。

この疫病はどうも「はしか」みたいだと定説ではなっています。

当時ははしかに対する抵抗力が弱かったため、このような被害が生じてしまったみたいです。

長保(999)や永暦(1077)、建永(1206)などもはしかによる改元です。

あともう一つどうしてもわからない改元があります。

咳病と書いてありますが、元徳(1329)改元です。咳病とは今でいうインフルエンザみたいなものでしょうか、いまだにはっきりしていないのが現状です。



🔶改元のまとめ

明治・大正・昭和と一世一元に生きる現代の人には、ほとんど信じられないことですが、それまでは、事あるごとに改元がおこなわれてきました。その一例として、一世多年号時代の最後の孝明天皇の年号を例に挙げてみます。

●嘉永(1848)代始改元

●安政(1854)内浦炎上、地震、異国船来航による改元

●万延(1860)江戸城本丸炎上、外交問題等による改元

●文久(1861)幸酉革命による改元

●元治(1864)甲子革命による改元

●慶応(1868)蛤御門の変による改元

このように6回も改元を行っています。そのうち5回が天変地異です。

代始改元にあたっては、新帝の治世の理想、施政の方針のようなものが年号に選ばれるに対し、天変地異による改元は縁起直し的な文字が選択される傾向があります。

書いた字のとおり、事が進めば結うことなしでありますが、世の中そう簡単にはうまくいきません。ましてや自然相手にいちいち改元していたらきりがありません。

平成31年は4ヶ月で終了します。新しい年号は4月に発表されるわけですが、これは一応代始改元にあたります。新しい元号が楽しみですね。

◆令和元年 吉日

改元による新たな時代が始まりました。いい時代になるようにしたいですね!

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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