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【日本の歴史】ウソのようなホントの話(奈良時代1)

【日本の歴史】ウソのようなホントの話(奈良時代1)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

今回から奈良時代に入っていきます。

古代と奈良時代の実質的な区分というのはなく、けっこうあいまいな時代でもあります。

そこらへんはあまり気にせずに書いていきます。

🔶平城京の張り出し部分は皇子の自宅であった

平城京の見取り図

唐の長安をまねて建設された平城京は、東西4.3キロ、南北約4.8キロの地域に街区を設け、その北端中央に、東西1.2キロ、南北1キロの平城京をおきました。

ところが昭和42年の冬から行われた発掘調査によって、方形だと思われていた平城京の東側に張り出し部分があり、法華寺(藤原不比等の邸宅)と、道路を一本隔てて隣接していたことが確認されました。

そしてこの張り出し部分は、平城宮造営当初から、その計画の中に含まれていて建設されたもので、南半分には庭園をもつ豪華な宮殿風の建物があったことも明らかになりました。

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建物は位置的なことからも東宮(皇太子の住居)あるいは東院であったことは間違いなく、将来の皇太子首皇子つまり聖武天皇と、その外祖父不比等の関係が改めて重視されることになりました。

というのは、平城京遷都が行われた和銅3年(710)には、10歳になった首皇子はまだ立皇子しておらず、4年後の立皇子に至るまで、必ずしも順調な歩みではなかったのです。

つまり不比等は外孫首皇子の立皇子、そして即位に至るまで警護しなければならないとして、できるだけて手近におくため自宅に接近させて、平城宮の張り出し部分に皇子の住居を設けさせたのでしょう。

では、なぜ平城宮を拡張せずに張り出しにしたかというと、その理由は大和の古道にありました。

「下つ道」を延長させて平城京中央の朱雀(すざく)大路とし、「中つ道」を東京極(きょうごく)に設定して平城京を建設し、平城宮を設定したため、全体のバランスを崩せなかったためだと考えられています。

藤原不比等

■ミニ知識

●藤原不比等

斉明5年(659)生まれ、養老4年(720)没。奈良時代初期の政治家。藤原鎌足の子。律令政治の実施に力を尽くす一方で後妻の橘三千代の協力により、皇室との関係を深めます。

娘の宮子は文武天皇の夫人、光明子は聖武天皇の皇妃となり、人臣皇居の道を開いた。実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説があります。

『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説があります。

🔶「われは大忠臣なり」と神に祈った反逆者、藤原広嗣

藤原広嗣

天平12年(740)9月、九州で起こった太宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣の反乱は、朝廷を震撼させたばかりではなく、以後の政局にも多大な影響を与えた事件でした。

首謀者、広嗣自身には反乱の意識はなく、常に忠臣として振舞っていました。

広嗣は豊前国の板櫃川で朝廷軍と対決した時、相手に対して下馬をして、「朝廷に反抗しようとは思っていない、天地の災異の原因が朝廷にいる玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまさび)の存在にあるからだ、その二人を除くだけである」と述べています。

そして合戦に敗れて船で逃亡、途中、風向きが悪くなった時、「われはこれ大忠臣なり、神霊われを棄てんや」と神力を祈願したといいます。

結局は今の海南島(中国)の近くまで行きましたが、逆風にあい、出発した肥前国松浦に戻されて捕らえられて、斬られてしまいました。

『松浦廊宮先祖次第井本縁起』という書物には、「広嗣には髻(もとどり)の中に角が生えており、竜馬で大宰府と都の間を朝夕往復し、その身体は端厳強軟自在であった」と記されています。

もちろん、そんな馬鹿なことはなく、ありえない事実です。

あくまでも朝廷に反逆を企てた首謀者として、広嗣を妖怪化して離脱させたかったのでしょう。

■ミニ知識

●藤原広嗣

生年不詳とされています。天平12年(740)没。奈良時代中期の公爵。藤原宇合の子。

文武の才はあったが、朝廷から警戒され太宰少弐に退けられました。朝廷の有力者、吉備真備、橘諸兄らを排除し、家運を盛り返そうと反乱を起こしましたが、失敗して処刑されました。

藤原不比等政権の末期から、日本は新羅に朝貢させることで安定した外交関係を築き、それを前提とした軍事縮小を行い経済的な余裕を持ちました。

続く長屋王も軍縮路線を継承しましたが藤原四兄弟に討たれてしまいます。

藤原四兄弟は唐と対立する渤海と同盟し、唐を支援する新羅に軍事的圧力をかける外交方針を取りました。

それに伴い、西海道に節度使を置き大規模な演習を行うなど、軍事拡張路線に転じました。

天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去しました。

代って政治を担った橘諸兄は軍拡政策と天然痘による社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取りました。

また、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退しました。



🔶飲み会の発言で失脚した橘諸兄

橘諸兄

中国の夏王朝の始祖である禹(う)が初めて酒を飲んだ時、「いずれ、これで国を滅ぼす者が出てくるに違いない」といったという伝説があります。

国とまではいかないにしても、酒で身を滅ぼした人はこの時代にも多くいました。

ことに酒席での発言が結果的に命取りになった場合が多く、左大臣正一位の地位にあった橘諸兄(たちばなのもろえ)の辞任もその例の内に入ります。

天平勝宝7年(755)11月、橘諸兄が酒席で礼を失するがごときの発言をしましたが、それは受け取り方によっては謀反に近い言葉であったと、こともあろうに雑人に密告されました。

発言の具体的な内容は明らかではありませんが、病床にあった聖武天皇はそれを聞いて、あえて咎めることはしなかったといいます。橘諸兄はそれを聞いて、翌年2月に辞任をしました。

聖武天皇はこの年の5月に他界しました。橘諸兄も後を追うようにその年に亡くなりましたが、聖武天皇があえて咎めなかったのは、藤原仲麻呂に政治の実権を奪われ、濛々としていた橘諸兄に対する同情によるものであったと考えられます。

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■ミニ知識

●橘諸兄

天平13年(684)生、天平宝字元年(757)没。奈良時代の政治家。美努王の子で初め葛城王と称したが後に臣籍に下る。

不比等の四子が疫病で相次いで没した後、左大臣として、吉備真備らとともに政権を握りました。

大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もあります。

『栄花物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にも入っており、一定の信憑性をもつものとされます。

後に仙覚は橘諸兄・大伴家持の2人共撰説を唱えている。『万葉集』では7首の歌を残している。

●聖武天皇

大宝元年(701)生、天平勝宝8年(756)没。文武天皇の皇子。母は藤原宮子。

藤原不比等の娘光明子を皇妃とし皇族立后の慣習を破る。深く仏教を信じ、国分寺・東大寺を建立するなどして、天平文化を創り出しました。

天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出しています。

これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。

ありがとうございました。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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