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【出雲歴史の旅】出雲国風土記と謎の出雲王国

【出雲歴史の旅】出雲国風土記と謎の出雲王国

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

今回は、島根県出雲市から松江市にかけて旅をしてきました。何度も訪れているところでもありますが、いつ訪ねても飽きない場所でもあります。

私みたいに、歴史好きの方なら絶対に外せないところだと思いますね。あの超有名な「出雲大社」、いま外国人観光客が多くなりました。ここは世界的に見ても名立たるパワースポットとして人気が出ています。

出雲から松江へと続く、国道9号線の左側にいつまでも続く「宍道湖」の情景、「玉造温泉」もほんとに情緒があるいい温泉でした。

旅の内容は、「旅ブログ」空2018の方でいずれ記事にして出していきます。こちらの方は、歴史的記述を中心に記していきます。

🔶謎の出雲王国、出雲の原点

八雲立つ風土記の丘石碑

■八雲立つ風土記の丘

島根の冬はやはり寒い、この日はあまり天候もよくなかったのですが、幸い雪や雨にもあわず時間が経っていきます。さすが日本海に面した街、風は冷たく激しいですね。

厚い雲が湧きそして風と共に激しく変動するありさま。また、その流れが凄まじい。

まさしく「八雲立つ出雲」です。

『出雲国風土記』にはこう書いてあります。

出雲と号(なづ)くる所以は、八束水臣津野(やつかみずおみづ)の命、八雲立つ、詔(の)り給びき。故(かれ)、八雲立つ出雲といふ

こういう出雲は古来、「神々のふるさと」と言われ、神話の伝承地や、それにふさわしい古跡の数々があります。

とくに、意宇川(おうがわ)沿いのそれは有名で、松江市大草の「六所神社」周辺が「出雲国庁跡」に指定されています。

六所神社

昭和46年(1971)に六所神社の付近が国庁跡に指定されるまでは出雲郷(あだかい)の地が有力視されていました。

現在の東出雲町付近ですが、今でも「出雲国庁跡」の石碑が立っています。

出雲郷説は近世をはじめ、松江藩の郡奉行であった「岸崎佐久次」が唱えたもので、もっぱら出雲郷説が支持され『島根県史』もこれを踏襲しました。

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ところで戦後から、新たな立場から『出雲国風土記』を見直す雰囲気が高まり、さまざまな角度から検証されました。

こういう研究が進むにつれて従来の「出雲郷」説と『出雲国風土記』の記述の間には、差異があり過ぎることが解ってきました。

昭和43年から発掘調査が開始され、漸次・遺構が現れ、間違いなく「出雲国庁跡」であることが判明しました。

八雲立つ風土記の丘」は、この国庁跡を中心に造られた史跡公園で、大庭大宮の神魂(かもす)神社、総社、国分寺跡などが包含されています。

大草古墳群がそれらの間に散在し、雰囲気を高めています。

神魂神社

大庭大宮と呼ばれる「神魂神社」は、出雲国造の祖「アメノホヒ」が創建したという古社です。

イザナミ」を祀り「イザナギ」を合祀しています。

出雲国の総産土(うぶすな)大神が祭主として「アメノホヒ」の末裔である「北島・千家」が奉仕しました。

後、「出雲大社」が創建され「北島」・「千家」の両家も移主しましたが、国造就任の印綬ともいう「神火相(おびつぎ)儀式」、「新嘗祭」はこの社で行われました。

本殿は天地根本(元)造りの形態する「大社造り」として、明治33年4月7日、特別保護建造物に指定され、のちに国宝になっています。

天平元年(1346)の改築というから出雲大社の改築より約400年も古いんです。

したがって現存する「大社造り」としては日本最古のものですね。

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訪ねて見るとわかりますが、社殿は幽玄で、境内はすべてにおいて深閑としています。古代出雲を彷彿させる景観で、出雲大社にはない日本創生神話の礎が感じ取れます。

熊野神社

さて、出雲には「スサノオ」の伝承が多く、神話の中に占める地位も大きいですね。

クシナダ」はこの地に難を逃れたといいます。「ヤマタノオロチ」を退治してから「スサノオ」はこの地に宮居を営んだという記述です。

「吾が心清清し。則ち彼処(そこ)に宮を建つ」『日本書紀』、その時、その地から雲が立ち登ったので「スサノオ」はこう歌ったといわれています。

やくもたつ 出雲やへがき つま隠(ご)みにやへがきつくる そのやへがきを

「スサノオ」のいわゆる須賀の宮は、現在の「須賀神社」との考証もありますが、ともあれこの「八重垣神社」の本殿内部には「クシナダ」を描いた壁画があります。

巨勢金岡(こせのかなおか)」の筆と言われています。

八重垣神社の境内

また、境内には「クシナダ」の化粧水であったと伝える「鏡の池」があり、今は縁結びの占いの池として知られていますね。

■大蛇退治をしない「スサノオ」

熊野大社

それにしても出雲には神々が多いですね。

松江市八雲町の意宇川の上流に「熊野大社」が鎮座していますが、出雲地方でもとても古い古社で、祭神は「スサノオ」とされています。

しかし、『出雲国風土記』には、そうとは記されていない。

郡家(こうりのみやけ)の南西二里二十歩なり。伊弉奈枳(いざなぎ)の真愛児(まなご)にます熊野加武呂(くまのかむろ)の命と、五百津鉏(いほつすき)の鉏(すき)なほ取り取らして天の下造らしし大穴持(おおなもち)の命と、二所(ふたところ)の大神等に依さし奉れり

しかしながら、「スサノオ」祭神説は「熊野加武呂」(櫛御気野{くしみけぬ}・奇御食主{くしみけぬし})はスサノオの異称であるというのを論拠としています。

といっても、「熊野加武呂」が「スサノオ」を讃えた別の名であるという確証は見つかっていません。

地元の研究家で「加藤義成」氏は、その著書『風土記時代』にこう書いています。

「風土記時代の熊野大社の祭神は、要するに熊野に鎮座される神様、霊妙な食料主宰神であって、出雲大社の大穴持命はこの食料神の御霊を奉じて、多くの鍬をもって食料生産を中心とする国造りをさせられた神であるとするのが、当時の実体であったのであろう」

と記し、さらに

「熊野大神は出雲最高の食料神であり、大穴持命は、この御霊を奉じて食料生産を中心とする国造りをする神として国造に祀られる神、国造は大穴持命の神霊を奉じて熊野大神を祀るとともに大穴持命を祀る人であったわけである」

と言い、熊野大社はあくまでも食料神の社として仰ぐべき社であると論じています。

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『古事記』・『日本書紀』では、華々しく活躍する「スサノオ」も、『出雲国風土記』の中では、それほど目立つ存在ではなかったみたいですね。

では、『出雲国風土記』の中で「スサノオ」はどのように書かれていたかというと、

神須佐能袁(すさのお)の命詔り給ひしく、この国は小き国なれど、国処なり。故(かれ)、我が御名(みな)は、木石(いわき)に著(つ)けじ、と詔り給ひて、やがて己(おの)が命の御魂(みたま)を、鎮め置き給びし処なり。然してやがて、大須佐田、小須佐田を定め給ひき。故(かれ)、須佐といふ

須佐之男命を画いた絵図

『出雲国風土記』における「スサノオ」は、神門川(かんどがわ)の上流にある須佐地方の国つ神でしかありません。

島根県安来市という所がありますが、この「安来」という地名は、「スサノオ」がこの地にきて、心が安らかになったと言ったところから、付いたというし、大原郡の御室は、御室をつくって泊まったところ、佐世は、佐世の葉(ツツジ科)をかざして踊った時、その葉が落ちたところと伝えています。

「出雲」といえば誰しも思い出すのが「八俣の大蛇伝説」、しかしながら『出雲国風土記』にはそれらしきことは片隅にも見えません。

それどころか、『出雲国風土記』には、「アマテラス」さえ姿が見えません。反対に出雲の国つ神として、特に大神としてされている「熊野大神」・「野木大神」・「佐太大神」は『古事記』・『日本書紀』にはまったく出てきません。

しかし、不思議なもので、これらの大神に変わって『古事記』・『日本書紀』の出雲神話には「スサノオ」・「オオナモチ」が主役を演じています。

■出雲の風土に接した神話

出雲国風土記

奈良時代の初め、元明天皇の和銅6年(713)に、朝廷は各国庁に、その国の産物、耕地の沃積(よくせき)の状態、山野の地名の由来、古老の伝承などを記録し、報告するように命じました。

『古事記』成立の翌年、『日本書紀』完成の7年前でした。

これは、『日本書紀』の編纂事業と一環を成すものであったみたいで、その後幾年か経って、諸国から国内地誌をまとめたものが中央にもたらされました。

それが「風土記」であったわけです。

今日残っているのは、「出雲」・「播磨」・「常陸」・「豊後」・「肥前」の5ヶ所だけだと思います。

しかしながら、完全な形で残っているのは『出雲国風土記』だけです。

確か、ほかにもそれに追従する、後代の諸書に引用された30ヶ国余りの「逸文」(いつぶん)が残っているはずです。

『出雲国風土記』は、その巻末の記載によると、天平5年(733)2月に完成していることが解ります。

「天平五年二月三十日勘(かんが)へ造る。秋鹿(あいか)の郡の人、神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)、国造らして意宇の郡の大領を帯びたる、外正六位上勲業出雲臣広島」(出雲国風土記)

文章、構成ともよく整理、統一されています。

神話・説話は断片的で、地名起源を説く形をとりながら記されているのが特徴です。

出雲の神話・説話は、上記にも書いたように、『古事記』・『日本書紀』の出雲神話とはまったく別なものになっています。

いうなれば出雲の出雲神話は、国土の開発と郷土生活の始源を神々に仰ぐ意味のものが多いのではないかと思います。

ともあれ、出雲の創世紀は「八束水臣津野」の「国引き」からはじまっています。

国引きのあとに登場するのが、国造りの「オオナモチ」です。

この神は『古事記』では「スサノオ」の子神といい、『日本書紀』では六世の孫としています。

『出雲国風土記』では、その妻神をスサノオの娘としていて、父神と婿神の関係になっています。

また、「八束水臣津野」と「オオナモチ」は『古事記』では、オオナモチはその孫神になっています。

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■出雲王国のまとめ

弓ヶ浜

出雲の創世記は、「八束水臣津野」の「国引き神話」と「オオナモチ」の「国造り神話」を主眼として作られています。

しかし、これだけ記されていることが違うにも関わらず、『古事記』・『日本書紀』は、「出雲神話」を多用していますよね。

その占める割合は本当に多いですよ。

そしてまた、「日本創生神話」の中で、重要な役割を果たす神も少なくない。

ある意味、神話という世界観の中で、中央に示した『出雲国風土記』の重要性がかいま見えてきます。

最後に「国引き神話」で有名になった弓ヶ浜を見に行きました。

そこで思ったことは、「出雲大社」は「出雲神話」にはほとんど関係がないよな、と解釈したかったのですが、やはり日本一の出雲大社、この造営に関してはとてつもない史実が隠されていると出雲国風土記を見ると感じてきます。

この「国譲り」に関しても、古代「大和政権」と「出雲王朝」との大きな関わり、または取引があったのではないかと推測できる点もあるということです。

ただ単に、根も葉もない架空の出来事を史実中心の「出雲国風土記」に記載するとも思えず、この点がこれから古代史のタブーとされていた皇国観が邪魔をし、すべてを神代化した「記紀」の疑うべき記述の全容だと感じています。

「出雲大社」の造営のことに対しては、新たに「旅ブログ」空2018のブログでしっかりと語っていきたいと思うので、興味のある方は覗いていただければと思います。

今や絶大な人気を誇る「出雲大社」、パワースポット化したこの場所にはあの「神魂神社」の残像が残っています。『出雲国風土記』を見て古代を遡ると、見えてくる本当のパワースポットはこの「八雲立つ風土記の丘」かもしれません。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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