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【山口歴史の旅】周防国城跡の軌跡

【山口歴史の旅】周防国城跡の軌跡

🔶長門国古城探訪の旅

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

本州の最西端に位置する下関市、この地は古代から関門海峡を望む交通の要所でもありました。

また日本の歴史史上からみても政治・経済の要所であり、周防国とともに長門国は今日の山口県を形成しています。

今回の旅は、古代から近世への長い歴史の中で、時代背景のとともにそれぞれの豪族・武将たちが築きあげて来た、古城の歴史を訪ね歩いてみました。

下関市周辺には数多くの古城跡が存在します。その古城跡は、天智天皇紀4年(665)8月の条に記された「長門城」(ながとのき)に始まり、平安末期から鎌倉期にかけて長門国に威をふるった「厚東氏(ことう)」・「豊田氏」。

周防国に起こり、室町期を頂点として防長両国の統一を果たした「大内氏」。その大内氏を滅ぼし、中国一円を支配し、江戸期においては防長二州に治政を敷いた「毛利氏」。

彼らの綴った興亡の歴史には、乱世の世における知的戦略の要素が含まれており、また、歴史における暗い政略的な秘話が多くあり、まさに「つわものどもの夢の跡」の感が深い地域です。

長門国は、律令体制下における国府の定められた「豊浦の地」、今日の下関市長府付近が中心となり、後世の幕藩体制下においては、毛利藩の居城がおかれた「萩市」が中心となってきましたが、今回は築城の記録として最も早い「長門城」が設けられた、下関周辺をめぐっていきます。

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■長門城(ながとのき)

長門城」は、よく「幻の城」と言われています。

『日本書紀』天智天皇紀4年の条に「秋八月遺達率荅体春初築₂城於長門国₁」とあり、さらに同紀9年の条に「二月又築₂長門城一・筑紫二₁」とみられるように、対外防備の砦として、筑紫の大野城とともに、長門国に2度にわたって城が築かれたことが記録されていますが、いまだに所在がはっきりしておらず、「幻の城」として後日の研究課題になっています。

今までにも様々に見解が述べられてきてますが、まず、文政年間、「中村徳美」という人が『長門国誌』において、下関市前田町に位置する「茶臼山」を「長門城」の築かれた地とする説を示しましたが、これは茶臼山から「奥州多賀城」や「大宰府都督城」などと同類の古瓦が出土したことを根拠としています。

これに対し、明治に入って「近藤清石」という人が、同じ長府の「大唐櫃山(おおからうとやま)」と「小唐櫃山」の説を唱え、長門城が韓人によって築かれたものであり、「韓人(からうと)山」から今日の名称へと転化したものだとしています。

この説に関連して、豊浦町の黒井の地にも「鬼ヶ城山」に連なり「からうと」という山があることから、長門城のひとつは「黒井の山」であるとの説も語られています。

火の山から見た関門海峡

一方、御薗生翁甫説は、「茶臼山」の場合、響灘を眼下にすることができないので、外敵の侵入に対処するには不都合であり、大唐櫃山・小唐櫃山説は、国府が置かれた長府市街地の背後にあたり、防備上不合理だとして、結局、長府の南端にそびえて南に響灘、東南に瀬戸内海を望め、また、海峡の最狭部を隔てて九州に相対する「火の山」が最も妥当だとする説です。

「火の山」は「のろし山」としても知られ、後世においても「大内氏」の臣和氣・相良の両族、永和年間には「三崎範龍」、永禄年間には「穂井田元清」・「宍戸隆家」・「坂新五左衛門」らが居城したことなどが、史書に記録されています。

この他、四王司(しおうじ)山説などもありますが、いずれにしても国府防備の立場から、長府の地を取り巻く山々が「長門城」築城の跡として推定されています。

■土肥山城

土肥山城跡碑

下関市は「源平壇之浦の合戦」の場としても知られるところで、平家の滅亡のドラマを多彩に語り伝えていますが、それらはもっぱら敗者平家の悲話であって、勝者源氏にかかわるものは数が少ない。

その数少ない源氏伝承のひとつというべきものが、下関市の一画、長府藩近世城下町で堀の内に当たるべき侍町背後にあたる丘陵「土肥山」の史話でしょう。

平家滅亡後、長門国では壇之浦合戦にも参加した「源頼朝」が没収跡御知行ということで守護の任につきますが、次いで「土肥次郎実平」が総追捕使となり、長府の地に入り、この山に居城し平家の残党追捕と長門国の平定にあたったことから、「土肥山」の地名を後世に残すようになりました。

『醍醐雑事記』によれば「首をはねる者八百五十人」とあり、平家勢力の一掃の厳しさが偲ばれるところですが、「土肥氏」はこの城において、鎌倉方の権威を大いに示したのでしょう。

ところで「土肥山」と言っても高さわずか50mぐらいであり、この周辺は昭和の終わりぐらいから、大規模な宅地造成がおこなわれてきたとこで、この一角に小さな公園「土肥山公園」と名が付いた場所があります。

その敷地内の片隅にひっそりと「土肥次郎実平之城址」の石碑が立っています。

ちなみに、この土肥氏は後に「備後守護」に任命され、後世、毛利三家のひとつに数えられる「小早川家」血脈の祖となりました。

一方、長門国は土肥氏のあと文治2年(1186)7月、宇治川の先陣争いで名高い「佐々木高綱」が守護職として入府、以後17代までこれを世襲しました。



■四王司山城

四王司山

JR長府駅の背後を見上げると、そこに長府のシンボルのようにそびえ立っているのが、海抜392mの「四王司山」。

南北朝時代に、長門の豪族「厚東氏」第17代の「義武」が拠り、また「大内盛見」の戦跡が伝えられる城山です。

三代実録』によると、元々この山は清和天皇の貞観9年(867)に、新羅調伏のため四天王の像五体を造り、各一体を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の国に下し、地勢高く賊境を見渡す要害の地に道場を建立し四天王寺と称し、僧を置いて国から修法料が支給されたとの由来があります。

このため、今日でも山頂には「毘沙門堂」があり、「福徳開運の神」として広く信仰され、正月初めの寅の日には、初寅詣の参拝客でにぎわっています。

また、ハイキングコースもあり、関門海峡の四季折々の風景を楽しみながら散策ができるようになっています。

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さて、正平年間、大内・厚東氏の抗争の時代となると、同13年(1358)大内弘世が厚東義武に代わって宮方の長門国守護職に命ぜられ、翌14年、厚東義武は勢力回復を図るべく一族を集結して四王司山城に拠って挙兵する。

大内弘世はただちに来攻し、12月26日に合戦、厚東義武軍は敗れて厚東義武は九州に逃げたという。

山城跡

大内氏が厚東氏を滅ぼして長門国を手中にした後の応永年間、この山城は再び戦いの場となります。

24代弘世、25代義弘の時代において大きく勢力を伸ばした大内氏は、「防・長・石・筑・豊・泉・紀」の「七州の大守」となりますが、この富強化は将軍「足利義満」に不安を持たせることになり、大内氏の財力消費の狙いで「将軍家北山別荘」の造営を命じますが、義弘はこれを拒絶します。

幕府に反して蜂起、泉州堺に敗死します。これによって幕府は大内氏を罰し、防長二国を残して没収、一応、義弘の弟弘茂を大内家の総領とし、山口を守る盛見の追討を命じました。

盛見は義弘を見捨てて敵方に降り、さらに自分の身の安全のために肉親を討つ側に回った弟弘茂の行動を怒って弘茂と絶縁、兄弟が互いに主導権を争う大内一族の内紛が始まったのです。

応永8年(1401)12月26日、弘茂の下向に対して一旦九州に避けていた盛見は長府に帰り、四王司山城で弘茂軍を破り、引き続いて長府佐加利山城に戦いましたが、弘茂はここであえない最期をとげ、大内氏の内紛もようやく収まりました。

長門城にも擬せられるこの四王司山は、以上のように中世史を彩る重要な戦跡を語っていますが、古城跡としての遺構をこれといってみることはできず、一合目あたりの小高い丘には四王司山の拝礼所の表示板が立ち、五合目には不動の滝があって斎戒沐浴の道場となり、山頂には毘沙門天をはじめ不動明王、金毘羅権現、八大竜王などが祀られ、身近な信仰の場として人々に親しまれています。

なお、弘茂の敗死した佐加利山は、四王司山の西南に接し、下山、盛山とも記録に見られますが、現在では住宅地になっており、古城町の町名にその歴史を止めるにすぎません。

ちょうど、ブリヂストン下関工場がある国道2号線を挟んで向かい側ですね。

■勝山城

勝山

下関市の勝山地区田倉にあって、四王司山の西にそびえる標高359m山で大内氏の滅亡にかかわる重要な城です。

文治派と武断派の対立に端を発した「重臣陶隆房(後の晴賢)」の蜂起によつて大内氏31代義隆が自決するに至った後、隆房は大内氏血縁の大友晴英(大友宗麟の弟でのち大内義長)を迎え、大内氏を継がせるが、やがて毛利氏と戦い弘治元年(1555)10月1日、巌島に敗死します。

「毛利元就」は勢いに乗じて防長制覇の軍を西へ向けます。これに対して「大内義長」は、弘治3年(1557)1月、山口に高嶺城を築きますが、3月、ここを棄てて西に逃亡し「内藤隆世」とともに長門国勝山城に立て籠りました。

毛利軍はこれを激しく攻めて、3月28日、ついに三の丸を占領、そして二の丸も落ち、4月2日、毛利方の「福原貞俊」が、「内藤隆世」に切腹を迫り、「大内義長」には命は助け望みどうりにさせる、との降伏を進める矢文を送りました。

ここで内藤隆世し自決、大内義長は脱出して勝山城は城落します。一方勝山城を出た義長は、長府の「長福寺」(現在の功山寺)に入ったが、福原貞俊がこれを囲んで自決を迫り、欺かれたことを知った義長は怒りの内に命を断ち、西国に覇を唱えた大内氏もついにここで終わったのです。

現在の勝山城跡は、山上に小石で築いた城礎の跡がわずかに残っていて、当時の名残を現在に伝えています。

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■櫛崎城

大内氏に代わって中国一円を手中ににした「毛利氏」でしたが、慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」で大阪方に加担したため防長二州に縮小されてしまい、長門国萩に城を構えることとなります。

この頃山口にあって防長一円を治めていた「毛利秀元」(元就の孫)は、慶長7年(1602)長府雄山(かつやま)に城を築き豊浦郡三万六千二百石の支藩、長府藩を開きます。

これを「櫛崎城」または「雄山城」とも言いました。「櫛崎」は「串崎」とも書きますが、長府の南側にあって、周防灘に向かって突き出た小さな岬で、東・南の二面は断崖となり、すそを波に洗われ、北・西側は城下町としての武家移住区で固めた要害の地形を成していました。

しかし、元和元年(1615)の一国一城の制によって城壁を破却し居館としました。その居館跡が現在の「山口県立豊浦高等学校」の校地です。

櫛崎城はわずか13年の短命に終わりましたが、豊浦高校に接して今なお西側に正門の跡と南に向かって数百メートルの石垣が現存し、城址記念碑とともに当時の面影を残しています。

ところで櫛崎城の築かれた雄山は、秀元の入場前にも城址としての歴史が伝えられています。

『長門国誌』によれば、天慶3年(940)瀬戸内海に勢力を振るった「藤原純友」の配下「下稲村平六景家」が在城したと記されていますが、定かではありません。

『温故私記』にある永禄12年(1569)9月中旬、「内藤左衛門尉隆春」の臣下「勝間田土佐守盛長」がこの城に拠ったという記録から「内藤氏」によって築城されたものと見られています。

この「内藤隆春」は「勝山城」で自決した「隆世」の叔父にあたり、その姉が「毛利隆元」に嫁いでいたので毛利氏と親しく、大内氏滅亡後に元就から「長門守護」を命ぜられています。

また、勝間田氏は内藤氏の一族で功があり、その守護代として「櫛崎城番」を命じられています。

いずれにしても、近世長府城下町開府の証としての重要な意味を持つ城址ですね。

■勝山御殿

大砲レプリカ

長府藩史300年の最後を飾るのが幕末の馬関(下関事件)戦争でありました。

文久3年(1863)5月11日未明、海峡に停泊するアメリカ商戦「ペンプローグ号」への砲撃をもつてその幕が切って落とされました。

翌元治元年8月のイギリス・アメリカ・フランス・オランダと四国連合艦隊(長州藩)との交戦に至るまで、関門海峡は6回にわたって砲煙の海と化しました。

当初優位に立っていた長州藩も、文久3年6月1日のアメリカ軍艦「ワイオミング号」、6月5日のフランス軍艦「セミラミス号・タンクレード号」の報復攻撃によって多大な被害を被りました。

長府藩がこの切迫した事態に対処するには、藩領の東南に位置し、特に海中に突き出た居城は非常に条件が悪く、急きょ新居城の造営かせ図られて、藩領の中心部で、四王司山・勝山・青山・三山に深く抱かれた要害堅固の「地田倉」が選ばれました。

築営工事は、文久3年6月28日に着手されましたが、事態は益々急を要する中で、9月には藩主「元周」の夫人が「勝山井田の「来福寺」に、また、12月には藩主自らも府中の山手にある「覚苑寺」に居を移すといった状況で、工事は急がれ、日に数百人を動員するという突貫工事が行われ、翌年2月1日には入城しました。

新居城址

わずか7ヶ月の工期によるものとはいえ規模はかなりのもので、現存する石垣を見ても180m、90m、70m、95mに及ぶものが城域を形成し、正門付近の石垣には縦2.4m、横2.8mの巨石も用いられているなど本格的な城甲としての威容を示し、明治維新の貴重な史跡となっています。

「勝山御殿」と呼ばれたこの城も維新後の明治2年(1869)版籍奉還によって豊浦藩庁となり、やがて城地と館舎は毛利氏の私財として取り壊し処分され、建物の一部が、長府城下の旧毛利邸や覚苑寺などに移築されました。

■まとめ

古代から幕末に至るまで、この関門海峡を見渡せる交通の要所は権力の象徴とも言えるべき戦いの歴史でもあります。

城址を廻り、何も残っていないか、もしくは石垣のみが残っているだけで、繁栄を物語る館城の姿は見れませんが、長門国の足跡をかいま見ることができ、現存する姿からは、今は無き繁栄歴史というものが語りかけてきます。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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