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【伊香保温泉】石段と万葉の湯

【伊香保温泉】石段と万葉の湯

🔶石段の街そして万葉のいで湯「伊香保」

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

群馬県渋川市伊香保に位置する「伊香保温泉」、榛名山の中腹に三百数十段もの苔むした石段と、九基の万葉歌碑がある、情緒あふれる温泉街です。

しかしながら、2004年に起きた「温泉偽装問題」、ニュースでも大きく取り上げられましたが、この「伊香保温泉」もその一つに挙げられ大騒ぎとなりました。

「水道水を使用しているにも関わらず温泉表示をしていた」、ということですが、正直、今でもなぜこんな話が湧き出て来たのかはわかっていません。

裏を返せば、温泉権利にまつわる事情があったみたいで、この話も本当なのか、怪しいところですね。

ともあれ、こういった苦難を乗り越えて、今でも素晴らしい景観を見せてくれる「伊香保温泉」、その開湯起源と歴史について記していきます。

■なぜ、これだけの万葉歌が謳われたのか!?

万葉集石碑

石段の街として全国にも名高い「伊香保温泉」は、全国有数の名湯であると言えます。「伊香保」の名は『万葉集』巻十四の東歌に見えているほど古い。

『万葉集』巻十四には、遠江以東12ヶ国230首が記されています。このうち国名が判明しているものをみると、上総3首、下総5首、常陸12首、相模15首、武蔵9首、下野2首、上野25首、信濃5首、駿河6首、伊豆1首、遠江3首、奥州4首です。

上野が二十五首と他国に比べて多いのは、当時、上野国に文化人が多かったからだという説もあります。

ところで九首も「伊香保」に集中していることについては、国府が「伊香山(榛名山)」に近く、上野文化の中心地であったからであるという。

ちなみに、伊香保の九首の内、いくつかを記しておきます。

伊香保ろにあま雲いつきかぬまづく 人とおばふいざねしめとら

伊香保ろのそひの榛原ねもころに 奥をなかねそまさかしよかば

上毛伊香保の沼にうえ子水荵 かく恋ひむとや種求めけむ

伊香保ろのそひの榛原吾が衣に つき寄ろしもよひたと思へば

「伊香保」が「伊香保温泉」をいうものではないという説もありますが、「伊香保温泉郷」を含む「伊香保山」の総称であったと感じます。

現在、伊香保の温泉街内に上記を含めた九首の碑が立っています。伊香保温泉の地は榛名山の北面に位置しており、古代では人の住めるような気象条件ではなかったと推定できます。

しかし、記録をたどってみると、山岳信仰と結んだ「水沢寺(坂東十六番礼所)」が、平安時代初期に創建されたことは明らかですから、伊香保温泉もこのころから利用が始まったのではないかと思います。

岡山の「奥津温泉」もそうですが、山岳信仰と大きなかかわりをもって栄えてきました。宗教または神道と温泉の結びつきは昔から大きなものがあり、「心身ともに清める」、という意味が強かったように思えます。

■伊香保温泉の開湯起源と過去の歴史

伊香保温泉

ここで『神道集』巻四十二「上野国第三宮伊香保大明神事」という項目があり、伊香保温泉の開湯について触れているので記述しておきます。

国司柏階の大将知降、同目代右中弁采女等の横暴を怒った伊香保神は、山神達を遣わし、二人を伊香保沼の東窪沼平という処にある小山に石牢をつくり、そこに追い入れた。

この石牢は、山神達が大石を重ねて作った石牢山で焦熱地獄であった。この山の麓から湯が湧きだして流れるようになつた。

その後、里の人々はこの湯を治療にあてていたが、大宝元年(701)3月18日に水沢寺の麓の番匠の妻子等が汚れた衣装を洗ったため、一人の老女が現れ衆生利益ためにもっと山深く運ぶと称し、お湯を瓶に入れて山奥に入った。

この結果、お湯は石牢山の北麓の伊香保の湯となって出るようになった。

と記しています。

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さて、伊香保の湯は古くはもっと平地にあったとされていますが、ある時期天変地異によって現在の伊香保の地に温泉が湧出し、平地の湯は枯渇したものであるかもしれません。

その後、文明17年(1485)尭恵上人が『北国紀行』に、越後路より三国峠を超え、9月9日には上州白井へ来て藤戸部定昌方に宿り、27日に草津に入湯、10月17日伊香保にたどり着き10月20日には国府に至る。

また、「此野は、秋の霜を争いて戦場未だ掃わずして軍兵野にみてり」とも書かれているから、この地方が戦いの最中であったことがわかります。

伊香保温泉、露天風呂

「藤戸部定昌」とは、「上杉定昌」のことで、当時この地方の守護職で、伊香保の湯は白井城の統治管理下におかれたときです。そして、上杉定昌はこの地を家臣団に与えています。

戦国の世もすでに終末を迎えようとしていた天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入り、関八州を支配するようになると、伊香保の地も平和になり一般庶民や武士階級の旅行も盛んに行われ、伊香保は湯治場として繁盛しました。

これがために幕府は、三国街道の裏街道として取り締まり、関所を設置しました。当時はいかに伊香保の人の出入りが盛んであったかが伺えますね。

しかし、時代の流れとともに戦国時代の村落社会の地侍と家の子郎党が、そのままの主従関係を保証できなくなり、上下関係の争いが多く発生しました。

伊香保特有の「大屋」(12人)と「門屋」の間柄です。戦国時代に十二支による年番名主制度をとっていた「大屋」は、その特権として広大な土地と温泉の権利を持ち、家の子であった者は、「大屋」の屋敷内に住居を与えられ、「大屋」に隷属して生活し、財産の所有権はもちろん、完全な人格さえ無視されていました。

しかし、時代の流れについていけない「大屋」もあり、次々にその名も消えていったので、富を蓄えていた「門屋」が旅館を始めたり、付近の村落の金持ちも伊香保に進出したから、おのずから伊香保の社会構造は一変していきました。

また、榛名山の急斜面に位置するので地形が悪く、度々火災が発生しました。特に天明4年(1784)には、伊香保の街は全焼しましたが、伊香保の経済力はすばらしく、たちまち新しい街が復興しました。

有名な石段も、この時に整備されたのです。

伊香保温泉、石段の湯

一方、明治以降になると、伊香保にも近代的な考えを持った人が人物も現れて、思想的にも進歩をしていきました。その表れの第一が「大屋」と「門屋」制度の改善で、着々と近代化に向けて改革を進めていきます。

新旧制度の交代現象が当たり前のようになってきて、日々進歩していき、明治20年代に東京で発行された「全国温泉番付」には、伊香保は草津・有馬に次いで東の関脇になっています。

その陰には、伊香保を訪ねた文化人たちの助言が大きく作用していることを考えなくてはなりません。

事実、伊香保に来湯した文化人をあげてみると、西園寺公望・原敬らの政界人、渋沢栄一のような経済人があり、文人になると数知れませんね。

少し上げてみると、「木下尚江」・「田山花袋」・「竹下夢二」・「土屋文明」・「夏目漱石」・「芥川龍之介」・「与謝野晶子」・「島崎藤村」・「若山牧水」と切りがありません。

最後に、「与謝野晶子」が「伊香保温泉」に来て次のように記しています。

「榛名山の一角に、段また段をなして、羅馬時代の、野外劇場の如く、斜めに刻みつけられた、桟敷形の伊香保の街、屋根の上に屋根、部屋の上に部屋、すべてが温泉宿である。そして、榛の若葉の光が、柔らかい緑で濡している。」

■「伊香保温泉」まとめと「伊香保神社」奉額事件

伊香保神社参道

ここで、上州三の宮である「伊香保神社」の奉額事件を少し記しておきます。伊香保温泉の石段を登り詰めると玉石垣に囲まれた小さな「伊香保神社」が鎮座しています。

その伊香保神社に文政5年(1820)北辰一刀流「千葉周作」とその門弟が、奉額しようとしたところ、地元の剣士馬庭念流十七世「樋口定輝」の一門との間に紛争となり、伊香保に数百人の剣士が集まったから大騒ぎになりました。

幸いに、両者間で話し合いができたので、事なきをおえた事件ですが、その頃の剣客にとっては、各地の神社仏閣への奉額は、当該地における剣の最優秀技能者としての認証的価値をもち、門人同士を集める必要条件でしたから、伊香保に限らず全国各地で事件が起きていました。

実際には、この奉額事件は、どこまで史実であるかわからない点が多いとされています。

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とにもかくにも、榛名山中腹な聳える「伊香保温泉」、交通機関の発達により、都心から1時間もあれば着いてしまうほどに近い温泉郷です。

これからもこの石段にみやう情景を残し、関東の奥座敷的な観光地として発展していただきたいと思います。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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