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【日本の歴史】日本史の七不思議に迫る!(前編)

【日本の歴史】日本史の七不思議に迫る!(前編)

■序章

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

昔から、どう考えても理解できないとか、科学的に不可解な現象などを7つ取り上げ、七不思議とよんできましたよね。

別に7つでなくてもいいのですが、言葉的に語呂ががいいのか、古くから地方ごとに色々な不思議なことを7つに整理して、広く公表してきたのが「七不思議」と呼ばれるものだと思います。

話の内容は、時代ごとに入れ替わったりするときも多々ありますが、こういうものは読んでいて面白いと感じることが多くあり、勉強にもなります。

ある意味一定していないというのがネックですが、まあ、あまり深く考えないでサラッと読むのがいいのかもしれません。

技術は進んでいき、自己主張や私論をブログに載せて公表することもできる時代になってきましたが、これもこのワードプレスのおかげだと感謝しています。

さて、今回は「日本史の七不思議」と題して記していきますが、歴史を調べていく中で、どうしても理解しがたいことが出てきますが、調べれば調べるほど謎が深まる事項も数多く、切りがありません。

その中で、あくまでも自前観ですが、日本史を見ていく中で理解しがたいものをとり上げて紹介していきます。



■1 なぜか土偶が破損している不思議

土偶」といえば、縄文時代の代表的な遺物ですが、早くに人体の省略形の姿をしたものが出現してから長期な渡って造られてきましたが、始めのうちは東日本に限って分布していました。

後期になると近畿以西でも発見されるようになって、徐々に全国に広がっていきました。

大きさは、高さが30cmほどのものを大型としますが、有名な土偶では、青森県つがる市の「亀ヶ岡石器時代遺跡」のように「遮光器土偶」と呼ばれるものがあります。

エスキモーが遮光器をかけたように大きな目を表現していることからこの名前が付けられています。

その他、顔面の形から「ハート形土器」、「ミミズク形土器」などと呼ばれているものがあります。



ところで、「土偶」はいかなる用途で作られていたのだろうか、という疑問がいつもつきまとっています。

形や大きさから見て、ちょうど土製の人形といった感じを受けるため、古くは縄文時代の人々、とりわけ子供の遊び道具として作られたとする考え方がありました。

この「玩具説」は、現在はあまり支持されてはいません。土偶の形をみると、胸のあたりに隆起した乳房が表現されており、ときには腹部を膨らませて、明らかに妊娠した女性の姿を示しているものもあり、出土したすべてのが女性像とみられることから、妊娠・出産に何らかの形でかかわる呪い的なものではないかと考えられています。

つまり、生殖と関わっていて、宗教的・呪術的儀式の対象だとする考え方ですね。

しかし、ここにどうしても理解しにくい点があります。それは、現在までに土偶そのものは、数千点が発掘され出土していますが、ほとんど全部と言っていいぐらい、土偶の一部が破損しています。

しかも、長きに渡り埋もれていて自然に破損したわけでもなく、故意にその部分を破損させたような跡があり、不思議でなりません。

これまでの出土例を見ても、足の片方がなかったり、腕が途中で折れていたり、頭の一部が欠けていたりと、完全な物は1%にも満たないという状況です。

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縄文土器の場合、たとえ破損していても、その付近から破損した部分が出土し、接合することが可能ですが、土偶の場合には、いかに広範囲な発掘調査をしても、破損部分の発掘ができずに接合することが難しいとされていて、現在でもほとんどが見つかっていません。

このことは、わざと土偶の一部を壊し、それを粉々にした可能性を物語っていると考えます。

実際に研究の中で、現在考えられているひとつの説は、足の悪い人が、土偶の足を折って病気やケガが早く治るように祈り、頭が痛かったり、頭に病気を持った人が頭の部分を壊し、病気やケガなどが早く治るように祈ったものと考えるのですが、現実は定かではありません。

それと最後にもうひとつの説ですが、ちょっと理解しがたい面もありますが、「芋類」の株分け栽培につらなる農耕儀礼だったとする解釈がなされています。

しかし、これもなかなか根拠が見つからず、真相は定かではありません。

どちらにせよ、本当の用途は過去にさかのぼり、その時代に行ってみないと真相は究明できないでしょう。

すべてが推測でしか表現できないことが辛い所でもあります。

最後に「遮光土器」の「宇宙人説」ですが、夢があって面白いとは思いますが、まずありえない、ということですね。

この土偶に施されている紋様は確実にエスキモー・アイヌ系の、日本列島に古くから土着していた人たちであることは間違いないでしょう。

いわば「日本人」のルーツにあたるということかもしれません。



■2 「いまだに使われていた用途がわからない「酒船石」

飛鳥には不思議な石造物がいくつかあります。政策意図、すなわち用途が不明な奇妙な石が点在しています。

例えば、橿原市白橿町の「益田の岩船」と呼ばれている巨石は、長さ11m、幅8m、高さ4.7mで、上野の面を平らにして四角いい穴が2つあり、墳墓説のほか、天文観測を行った星占台とする説があり、どのような目的で作ったかは明らかではありません。

明日香村にある「酒船石」も同様、確固たる用途が解っていない。飛鳥寺の東の道を南下したところに位置する逝廻丘に置かれており、長さ5.3m、幅2.3m、高さ0.8mほどで、「益田の岩船」ほど大きくはなく、「酒船石」には上の面に幾何学模様があり、いろいろな説は飛び交ってはいるものの、確固たる説得力がないのが現状です。

酒船石は両端が割り取られてしまっているため、もとの形がどのようなものであったかはわかりませんが、円とか楕円、半円の形をしたところに溝が通り、それぞれ結ばれています。

「酒船石」と呼ばれるようになったのは、正式には不明ですが、すでに江戸時代には「長者の酒ふね」という表現もみられ、古くから酒をしぼる槽と考えられていたことが伺えます。

造られたのは7世紀ですが、この「酒船石」のことは文献に出てこないため、表面に細い溝で繋がれたくぼみの意味は不明でした。

これまでにもいろいろな解釈が試みられており、ひとつは、酒船石の名が示すように、酒の貯蔵に用いたとする説。

酒の貯蔵にこのような円や溝が必要なものか私にはわかりませんが、何らかの液体を流して沈殿させる装置だったとする考え方はいまでもかなりの支持者が多く、菜種油の製造説、あるいは辰砂、朱の製造説などが言われています。

ところが、この酒船石の東40mほどのところに、酒船石へ引いたものと思われる土管や石樋が見つかっていることから、単に水を流して鑑賞するための施設、すなわち庭石だったのではなかったのかという説もあります。

その他、上記の「益田の岩船」と同じように天文学に関した星占台ではないかとする説、天体の運用と方位に何か関係があるのではないかとする説、さらに、呪術際祀説などがあり、いまだに結論は出ていません。

この酒船石の南西約400mのところからも似たような石が出土しており、それらとの関係も総合的に研究が重ねられています。

この時代はやはり、大まかなものは石か木で作るしかないわけで、何が出てきても不思議ではないし、現代人では考えられない使用用途を博しているかもしれません。

■3「邪馬台国」の位置が決まらない不思議

『魏志倭人伝』に出てくる「邪馬台国」の所在をめぐっては、ご存知のとおり昔からの長い論争の中にあります。

ある意味、この「邪馬台国論争」自体が日本の歴史になるのでは、と思うぐらい、古くから色々な説が論じられてきました。

出雲説、阿波説、伊豆説などもありますが、やはりメインになっているのは「大和説」と「九州説」でしょう。

「耶馬台」は「ヤマト」と読めることから、大和の字が浮かんできて、「大和説」が唱えられています。

邪馬台国の位置については『魏志倭人伝』によると、九州の北岸である「伊都国」から南へ水行10日、陸行1月というように読み取れますが、そのままの行程で邪馬台国の所在地を求めると、九州のはるか南の海上になってしまいます。

そこで、大和説の論者は、南へ水行10日、陸行1月というのを南は東の誤記と考え、東へ水行10日、陸行1月とし、大体、大和に到達すると解釈したわけですね。

それに対し北九州説の論者は、水行10日、陸行1月とあねのを、水行ならば10日、陸行ならば1月と並列的な読み方をして、しかも1月とあるのを1日の誤記と考え、伊都国を起点に放射状に「奴国」・「不弥国」・「投馬国」へ至ると解釈し、邪馬台国は北九州にあったとする説を唱えました。

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事実、築後国山門郷であったり肥後国山門郷がともに「ヤマト」と読めるのでこの説も有力視されてはいます。

このように「大和説」・「北九州説」の2つに分かれていますが、そのどちらかをとることによって、「大和朝廷」の理解が大きく変わってきます。

邪馬台国が大和にあったとすれば、女王卑弥呼による邪馬台国が、北九州にあった末盧国や伊都国などを支配下においていたことを示し、日本の統一時期は3世紀前半まで遡らせることができます。

しかし、邪馬台国が北九州ににあったとする北九州説をとれば、北九州諸国が邪馬台国の支配下に入っていただけで、後の大和朝廷とは直接的には連続していないことになり、日本の古代国家の発達がかなり違ったものとしてあらわれてくると考えます。

先に見たように、大和説をとるためには『魏志倭人伝』に南とあるのを東に読みかえなければならない無理があり、北九州説をとるにしても陸行1月を1日と読みかえなければならない無理があります。

とにかく、どちらにしても無理があり、『魏志倭人伝』の読解だけでは容易に決着がつかないと言えるでしょう。

しかし、これだけの研究史の蓄積があり、また、考古学の発掘調査が飛躍的に進められているにも関わらず、大和にあったのか北九州にあったのか決着をみないのは不思議でならないところがあります。

極論からいえば、この邪馬台国が現存したのか、というところからの話になるのではと思います。正直、中国の史書は昔から誇大表現も多く、かなりいい加減にしか書いていないことも多くあり、研究者を悩ませてきました。

日本史においても3~4世紀にかけては「空白の時代」といわれるほど、資料等が残っていません。

後は、発掘調査の出土に頼るしか方法がないのですが、現在に至るまで邪馬台国が現存した、または卑弥呼という人物がいたという事実は一切見つかってはいません。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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