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【日本の歴史】ウソのようなホントの話(奈良時代2)

【日本の歴史】ウソのようなホントの話(奈良時代2)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

奈良時代の第二回目です。歴史上のホントにバカバカしい話ですが、現代の言葉に変えて文章化するとこういう話になる、ということですね。

いずれも史実に基づいているため、実際にこれに近い出来事が、この当時あったものと考えられます。

何事も、同じ人間がおこなうこと、古代であれ、現代であれ、やることはあまり変わってないのではと思います。

🔶夜遊びしすぎて皇太子をクビになった「道祖王」

古墳入口

天平宝字元年(757)3月、孝謙天皇は皇太子「道祖王」(ふなどおう)をクビにしてしまった。もちろんこの出来事は初めてである。

その理由は、聖武太上天皇が他界してまだ日が浅く、服喪中であるにも関わらず、道祖王は、側に仕える童と妙な関係を持つし、機密にすべき事柄をなどもみな漏らしてしまった。いくら注意しても改めることはしなかったという。

加えて宮殿を抜け出して夜遊びはするし、あげくの果てには「どうせ俺なんぞは、バカで皇太子の柄じゃないよ」と広言するありさまである、という。

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これが事実であったとするならば、クビになるのも当然だと思うが、「道祖王」に代わって新たに皇太子になったのは、「大炊王」(おおいおう)であった。後の淳仁天皇。

この大炊王は、当時の権力者藤原仲麻呂の亡くなった息子の嫁の再婚相手で、仲麻呂の邸宅に居住していたいたのである。

だから仲麻呂の意向をうけた天皇が、聖武天皇が定めた道祖王を、皇太子の位置から降ろすためにデッチ上げた理由のような気がしないでもない。

しかし、いずれクビにされる運命と悟った道祖王が、いわば自爆自棄になっての言動であったとも考えられる。いずれにしても、政争の犠牲者の一人であった事だけは確かである。

■ミニ知識

●聖武天皇

大宝元年(701)生、天平勝宝8年(756)没。文武天皇の皇太子。母は藤原宮子。藤原不比等の娘光明子を皇后とし皇族立后の慣習を破った。深く仏教を信じ、国分寺・東大寺を建立するなどして、天平文化を創り出した。

●道祖王

生年不詳、天平宝字元年(757)没。聖武天皇の遺言で皇太子になるが、藤原仲麻呂の策動により素行を理由に皇太子を廃された。後に藤原仲麻呂の台頭を抑えようとした橘奈良麻呂の変に連座したとして捕らえられ、拷問をうけて亡くなっている。



🔶土木測量に優れ、算術の天才だった「藤原仲麻呂」

藤原仲麻呂の像

正位一位大政大臣から一転して逆臣となり、非業な最後を遂げた恵美押勝(えみのおしかつ)「藤原仲麻呂」は、この時代において稀に見る秀才であったと記されている。

『続日本紀』に記載されている伝記によれば、生まれつき賢く、おおよその書物には目を通していた。

とくに「大納言阿倍少麻呂について算術を学び、もっともその術に精通していた、と記されている。

読書家で知識が豊富であったというばかりではなく、計数に際立った才能を発揮していた。この時代の算術というのは、今でいう算数程度のものではなく、代数や三角法、それに基づく土木測量や天文計測まで及び、きわめて高度な実用数学である。

天平13年(741)4月、藤原仲麻呂は摂津と河内の両国が国境の河堤について起こした紛争を解決するために現地に派遣されている。

そしてその3ヶ月後、民部卿に命ぜられ、ただちに遷都したばかりの恭仁京(くにのきょう)における左・右両京の設定、そして庶民のための宅地班給に従事している。

こうしたことは、それに必要な土木測量技術に精通していたからであったと考えられる。

■ミニ知識

●藤原仲麻呂

慶雲3年(706)生、天平宝字8年(764)没。奈良後期の政治家。藤原武智麻呂の子。後に恵美押勝の姓を授かる。光明皇后信任を得て政界に進出。道祖王を退け、一族の大炊王を擁立して専権を振るったが、道鏡の進出におびえ、これを除こうとして反乱を起こし失敗。斬罪に処せられた。

●恭仁京

聖武天皇の天平12年(740)から16年(744)の間の都。藤原広嗣の乱を平定後、聖武天皇が橘諸兄らに命じて遷都したが、その経営に莫大な費用がかかったため、未完成のまま難波に遷都した。



🔶大政大臣「藤原仲麻呂」の年収は現在に換算すると3億7千万相当であった!

猫に小判

令の制度における大政官の長官である大政大臣は、適任者がいなければ欠いてもよい官職であった。

この最高官に皇族以外の者で命ぜられた最初の人は「藤原仲麻呂」であった。仲麻呂の祖父「不比等」の場合は辞退している。

令の規定によると大政大臣の位階は一位であるが、仲麻呂は正一位まで昇ったから、その給与も膨大なものであった。

すなわち位階にともなう位田が八十町、位封三百戸、これは定められた三百戸の位封から貢納される租税が与えられるものである。

また、大政大臣という官職にともなう職田が四十町、さらに職封は三千戸が与えられた。

その他には春と秋の季禄として絁(あしぎぬ)、綿、布、鍬などが現物で支給され、さらには現物給として毎月米や塩が与えられる月料があった。

節会(せちえ)行事のための節禄、馬料なども支給されている。そして身辺の警護や雑用に使われる人が400人与えられるひとになっていた。

これらの支給総額を、米の値段を基準にして今の価格に換算すると、おおよそでも3億7千万を超えてしまう。

これは、現代の内閣総理大臣の年収の比ではない。だからといって総理大臣の給料が安いというわけではない。

ちなみに貧乏歌人としての印象がぬぐえない「山上憶良」(やまのうえのおくら)の年収は、おおよそ1千500万程度であったというち。

■ミニ知識

●道鏡

生年不詳、宝亀3年(772)没。奈良時代末期の僧。孝謙上皇の信任を得て政界に進出し、藤原仲麻呂の道鏡排除の反乱が失敗した後は、大政大臣禅師、法王となり権勢を振るった。

称徳天皇によって道鏡を皇位につけようとする動きもあったが、藤原百川らによって阻止された。天皇没後、下野に左遷されている。



🔶藤原仲麻呂は「北京」、道鏡は「西京」と倍都を造営した二人

古墳

天保宝字5年(761)10月、淳仁天皇は平城宮の内裏を改造するため、しばらくの間近江国石山に設けられた保良離宮へ移った。

そして、ここに「北京」を設けることを決める。国都である平城京以外に、都を別に設ける、つまり倍都(ばいと)を造るというのである。

倍都制度は中国からのものであり、すでに難波がそれに類する役割を果たしていたが、正式に「京」を称したのはこれが最初であった。

「北京」設置の意向は天皇から出たものではない。天皇を意のままに操っていた藤原仲麻呂の計略であった。仲麻呂は最大の支援者であった光明皇太后が亡くなった後の権力保持を図って、自分の根拠地ともいえる近江に倍都を造らせたのである。

しかし皮肉なことに、この保良宮で孝謙天皇と道鏡が結びつき、仲麻呂の没落が始まったのである。

仲麻呂にとって代わって権力者となった道鏡も、その権力維持を目的に神護景雲3年(769)10月、河内国の由義宮(ゆげのみや)を「西京」とした。

ここは道鏡の故郷である。いわゆる皇位覬楡(きゆ)事件の後、孝謙天皇が重祚(ちょうそ)した称徳天皇をこの行宮(あんぐう)にいざない、倍都「西京」とさせたのである。

そして天皇はこの地で病にかかり、翌年8月に亡くなり、道鏡も没落してしまうのであった。

以来、日本では倍都は設けられていなかった。ただ、明治になって北海道旭川に「北京」設置の運動が起こったが、実現しなかった。

■ミニ知識

●孝謙天皇

養老2年(718)生、宝亀元年(770)没。聖武天皇の皇女。従兄の藤原仲麻呂を重用し、皇太子道祖王を廃して大炊王に譲位。後に道鏡を溺愛したために藤原仲麻呂が反乱を起こした。

後に淳仁天皇を廃し、自ら再び皇位について称徳天皇となった。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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