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【日本の歴史】日本史の七不思議に迫る(後編)

【日本の歴史】日本史の七不思議に迫る(後編)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

「日本史の七不思議」後編ですが、長い歴史の中でたった七つだけ取り上げて書くのももどかしさがありますが、日本史史上不思議な出来事は取り上げれば切りがありません。その中でも残り4つを私観のうえで記していきます。

■4 630年間も日本独自の通貨を持たなかった不思議

日本には皇朝十二銭と呼ばれる貨幣がありました。一番初めは和銅元年(708)の和銅開弥(わどうかいほう・わどうかいちん)で、その年5月に銀銭、8月に銅銭を鍛造し、やがて銀銭が廃止され、銅銭のみが流通していったとされています。

それ以降、万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・長年大宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝と続き、天徳2年(958)には乾元大宝が出ています。

富本銭(ふほんせん)が和同開珎より古いとされて天武12年(683)と推定されていますが、実際には定かではないのが現状です。

和同開珎・万年通宝・神功開宝の3種類が奈良時代に、それ以降の9種類が平安時代になって造られて、流通していきました。

ところが、乾元大宝を最後に、わが国では貨幣が造られなくなりました。銅貨の銅が採れなくなっというならば話は分かりますが、例えば日明貿易の輸出品をみても、日本から主要輸出品として銅が入っています。

当時、日本は世界でも有数の銅の産出国でありました。

国内の銅の産出があるのに、なぜか乾元大宝以降、国内では銭貨の製造は姿を消してしまい、自国の年号が入った銭貨が造られたのは、実に630年ぶりだったのです。

豊臣秀吉が、天正15年(1586)に「天正通宝」というものを造っていますが、これが日本独自の貨幣の復活でした。

ただ、天正通宝は、奈良・平安時代の皇朝十二銭とは違い、かなり異質なものでした。というのは、皇朝十二銭は銅貨であり、実際にそれが流通して売買をしていましたが、天正通宝は金貨と銀貨の2種類で、しかも一般流通用というわけではなく、賞賜(しょうし)用・贈答用だったのです。翌年に造られた「天正大判」も同じで賞賜・贈答用でした。

それに代わるものとして、中国から「宗銭」や「明銭」などが「渡唐銭(ととうせん)」という形で日本に輸入され、それらの輸入銭が市場に流通していたということです。

つまり、通貨を外国から輸入するという事態が600年以上も続いていたわけで、通貨発行権が国家の機能のひとつとすれば、平安時代の中期以降、秀吉の時代までは、やはり不思議な時代たったのかもしれません。

はっきり言ってなぜ独自通貨を製造しなかったかはいまだに不明です。



■5 築造者・築造時期不明の女堀の不思議

群馬県赤城山南麓に「女堀(おんなぼり)」と呼ばれる大きな堀があります。前橋市上泉町から伊勢崎市国定町までの幅20mないし30mの堀が、実に長さ12kmに渡って掘られています。

ところが、この大規模な堀が、いつ、何のために、誰が築いたのか、何ひとつわかっていないのが現状です。

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土地の人の伝承では、女堀という名の由来にからめて、女の人がかんざしで掘ったとか、尼将軍として有名な「北条政子」の時代に掘られたとか言われていますが、とにかく、この堀に関する史料がほとんどなく、謎は深まるばかりです。

堀であるから今でも一部が水がたたえられ、使用されていますが、少し前までは夏はプールとして、冬は下駄のスケートリンクとして、子どもたちの格好の遊び場にもなっていたみたいです。

しかし、無用の長物として、大規模な土地整備事業のため女堀そのものが破壊される危険が大きくなったために、ようやく保存の動きがあらわれて、昭和54年から発掘調査が進められて一部は国の史跡に指定されています。

この発掘調査で、いくつかの事柄が明らかになりました。そのひとつは、女堀が用水堀だったということです。

二つ目は、利根川からの引水を計画して工事が進められていたようですが、途中で放棄されたということです。

三つ目は女堀は天仁元年(1108)の浅間山噴火後に開削されたことが明らかになり、また四つ目として、単純計算すれば、1日100人の人が作業を行ったとして、10年近くの歳月を要したという事実です。

こうした発掘調査の成果にも関わらず、依然として、誰がいつこの女堀を掘ったかという謎はそのまま残っています。

また、12kmにも及ぶ大規模な堀について、この堀を掘ったことを物語る文献資料が、現在までのところ一点も見つかっていないということですね。

この発掘調査によって、それまで伝説的に言われていた推古天皇の時代に掘られたという線は消えましたが、誰がいつ築造したかという問題は未解決のままです。

しかし、中世の大土木工事であった事はいうまでもなく、土木技術史の観点からも注目を集めるようになり現在のところ、12世紀の中頃、淵名荘(ふちなのしょう)という荘園の開発領主である「淵名大夫兼行」を中心とした同族連合が開削したとする考え方あります。

さらに、13世紀に上野国守護となった「安達氏」によって進められたとする説、また安達氏滅亡後、この土地を支配した執権「北条氏」が開削したとする説が提起されていますが、いずれも決定的な証拠が見つかっていないのが現状です。



■6 沖縄が日本に帰属することになった不思議

沖縄のことが、日本の文献に初めて登場してくるのは、天平勝宝5年(753)のことで、『阿児奈波(あこなわ)』と記されているのが初めてです。

それに対し中国側文献では『隋書』に「流求」と見えています。もっとも、この「流求」については、沖縄をさすとする説と台湾をさすとする説の両方があり、一定していません。

11、12世紀ごろ、日本でちょうど平安時代から鎌倉時代に移行するころですが、沖縄では「按司(あじ)」、いわゆる古代豪族が各地に登場し、グシク(城砦)を造りそして戦い、やがて14世紀の初めには、山北・中山・山南の3つの小国家が出現し、ここに「琉球王国」を造りあげました。

特に中山王の「察度(さつと)」が応安5年(1372)に明との間に正式に朝貢関係を成立させた点は注目されます。

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ところで、琉球はジャワ・ボルネオなどの南方貿易の基地であり、また明との中継貿易基地ともなり、薩摩の島津氏が琉球渡航印判状を授与する権能を許されており、島津氏との関係は緊密でありました。

ところが、文禄・慶長の役の時、豊臣秀吉が島津氏を通じて兵糧課税を命じたため、かえって明に傾き、関ヶ原合戦後、徳川家康の来聘(らいへい)要求にも応じてきませんでした。

慶長14年(1609)、島津氏は大軍を率いて琉球に攻め入り、その結果、琉球国は島津氏の支配する特殊な属領となりました。これが島津侵入事件と言われるものです。

しかし、琉球王国はそのまま存置されており、日本とは別個な独自の国家として体制を保っていました。

したがって、清国との間にも支配被支配関係を結んでいたので、これを「両属政治」などと呼んでいます。

さて、両属政治が清算されたのは、このブログでも記している、明治に入ってからのいわゆる「琉球処分」でした。

つまり、明治4年(1871)の廃藩置県によって鹿児島県に編入され、清国との朝貢関係を停止させ、明治12年の沖縄県設置という一連の動きでした。

こうして、「琉球王国」という独自の国家が日本社会に組み込まれていったわけですが、魂胆とした形での帰属に、やはり奇異の念をいだかざるおえません。

ただひとつ、この時点で日本がこの沖縄を帰属させなかったとしたら、アメリカ・ヨーロッパ諸国の植民地に、高い確率でなっていたでしょう。



■7 天皇制が存続し続けた不思議

ひとくちに「天皇制」といっても、時代によってその内容はかなり違ったものとなり、古代の天皇制、中世の天皇制、近世の天皇制、そして近代の天皇制は違うし、敗戦後の現代の天皇制はまた異なります。

しかし、一貫として天皇制が存続しつづけたことは、やはり日本の不思議のひとつだと思います。

古代の天皇制は、近代の天皇制とならんで最も天皇制らしい天皇制だと感じています。

律令制度という組織だった機構を立てて、天皇自身が権力機構の頂点に立っていました。

ところが、中世の天皇制というとなると、やや趣が変わってきて、天皇自身による日本全体の支配とならなくなります。

具体的にいえば、鎌倉幕府の成立により、関東御陵・関東御分国、さらに地頭領に天皇の力が及ばなくなり、その状態は室町時代、戦国時代につれてひどくなり、天皇制そのものの存在すら否定される状況でした。

それにも関わらず天皇制が存続しつづけたのは、例えば、織田信長が四面楚歌の状況を迎えた時、勅命による講和という手を考え付いたように、天皇制に存続意義を認めていたからです。

そして、近世の天皇制になるのですが、近世の天皇の位置は、よく言われるように十万石の大名と同じでした。

公卿領等を合わせても十万石にしか過ぎなかったからであり、わずかに様々な儀式を司るところに、その存在価値が認められていたにすぎません。



では、そのような近世の天皇制が、再び古代天皇制のような絶対者として近代に復活したのはなぜだったのか。幕末の倒幕政治過程において、雄藩連合の誰か一人を統領に選ぶことが困難な状況で、それまで儀礼にのみかかわってきた非権力的・非政治的存在としての超越的な天皇制が担ぎ出されたとする見方が多い。

古代的な、あるいは近代的な絶対者としての天皇制ではなく、「象徴」としての天皇制の時期があったことが、天皇制存続の大きな理由であったと考えられます。

それは近代の歴史をみればまた同じで、敗戦後の天皇制の存続にかかわる問題は「象徴」となることで存続を得ました。

日本国家との関係を考える時、この先何百年もの間、この独自の天皇制は存続していくと思うし、また、過去の歴史を繰り返すように、歩み続けると思います。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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