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信州の鎌倉【別所温泉】、そして古戦場のいで湯【戸倉上山田】

信州の鎌倉【別所温泉】、そして古戦場のいで湯【戸倉上山田】

こんにちはワカマツです。こんにちは。

長野県といえば名湯や秘湯が多い地域ですが、歴史に名高い、また、由来も古く天下に名高い温泉の歴史秘話を書いて行きます。

今回は、長野県上田市に位置する、信州の鎌倉と言われる「別所温泉」、また、古戦場のいで湯として今もその歴史を語る「戸倉温泉」を記していきます。

■信州の鎌倉「別所温泉」

別所温泉の古称は「七久里の湯」といいます。これを「七苦離」と書くのは、仏僧によって湯の戒が行われていたことを、物語っているようでもあります。

湯の戒とは、「七物を整えると、七病を除去して七福を得る」(『仏説温室洗浴衆僧経』)といった具合のものであろうと考えられます。

この塩田平には湯の戒をもつ寺が古くからあったに違いないと思わせる、三楽寺と言われた長楽寺、常楽寺、安楽寺があり、確かではありませんが、いずれの寺には湯聖(ゆひじり)がたむろする堂宇(薬師堂、あるいは観音堂)があり、温泉を管理したと思われます。

これらの湯聖たちの集落が別所であったと思われ、『広辞苑』も語義のひとつとして、「本寺の周辺に結ばれた草庵の集落化したもの」と記載しています。

また、湯聖たちは、本寺などの寺々に対して「別所」と呼んだと考えられ、湯聖にかぎらず聖という名の私僧は自ら卑しめることが多かったのです。

とはいうものの、塩田平における湯聖の行跡には不明な点が数多くあり、研究も進んでいないのが現状です。

こういうこともあり、現行地名の「別所」は塩田北条氏の別墅(べっしょ)があったところ解する向きがあり、現にそう思っている人も多いのだと思われます。

確かに、塩田平の歴史を調べてみると、塩田北条氏にまつわることが多くありますが、私にしてみれば「別墅」が「別所」とはどうしても考えにくいというのが本音です。

塩田平は平安時代の末には、最勝光院の荘園でした。そして鎌倉時代のはじめには島津忠久が地頭になっています。比企氏の事件に連坐して島津氏が失脚すると、北条氏の信州進出が本格化し、北条重時(義時の三男)が信濃国の守護となっています。

もちろん、塩田荘の地頭職も重時に移っていて、重時の子の義政は塩田の地に館を構えて隠棲塩田北条氏の祖となりました。義政以後、その家系が三代53年にわたって塩田に居住したということです。

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ところで、義政の塩田隠棲に関しては不可解なことが多いといわれています。実際に私も調べてみましたが、『北条九代記』などの史書によると、建治3年(1277)4月4日、義政は突如として出家しています。

一応、病のためと記されていますが、連署の地位にあった義政の出家はただ事ではありません。そして5月22日に義政は誰にも告げず漂然と鎌倉を抜け出し、信州の善光寺に入ってしまいました。

この時義政は36歳、まだ出家をして世を志すような年齢ではありません。しかもこの時期の世情は、蒙古の再度の招降使を迎え騒然としていたはずです。

こういった矢先の連署の辞任、出家したのだから内外は仰天したに違いありません。

執権の時宗がこのことを知ったのが6月2日というからこれもまた不可解な話です。ともかく、時宗は工藤道恵を善光寺に遣わして、義政の帰参を説得しましたが、義政はそれを拒み塩田に退隠してしまいました。

義政の突然の出家退隠には事情があったはずですが、はっきりとしたことが書かれておらず、現在でも不可解な出来事として記されています。

得宗家(とくそうけ)の権力強化を図る時宗との間に感情のこじれがあったのかもしれません。蒙古(元)の使いの者を斬り捨てて、徹底抗戦に出た若い時宗にとって、義政の出家騒動は、無責任な、また気ままな行動としか映らなかったようで、6月にはすぐに塩田荘を含む義政の所領所職を没収したといいます。

しかしながらこのことについても不可解で、確固たる確証は残っておらず、この後も塩田北条家の家系は続いています。

上田市史』などによると、義政を祖とする塩田北条氏は安楽寺をはじめ、各寺院の外護者となったので塩田平は「信州の鎌倉」と称されるほどになったといいます。

こういう塩田平の中心は「椎谷惟僊(しょうこくいせん)」が開山となった安楽寺ですね。ともあれ、塩田平は中世の信濃における仏教文化の一大拠点となったのではと思います。

実際に、現存する安楽寺、常楽寺、前山寺、中禅寺といった寺々は、中世の残照ともいうべき文化財ですね。

いずれにしても別所温泉(七久里の湯)の開湯は古く、その由来は「日本武尊」や「円仁(慈覚大師)」、あるいは平維茂に求められることが多いです。伝承はともかく天下に名高い名湯だったということです。

それでいつしか清少納言も沐浴(ゆあみ)したというような伝説も生まれるわけです。これは『枕草子』又一本の「いでゆななくりのゆ」にもとづくものであると思われます。

信州最古の湯と言われている「別所温泉」、やはり外湯めぐりがいいのではと思いますね。

真田幸村隠しの湯「石 湯」

慈覚大師ゆかりの湯「大師湯(だいしゆ)」

木曽義仲ゆかり葵の湯〜北条氏ゆかりの湯「大 湯」

足湯「ななくり」

足湯「大湯薬師の湯」

もちろん足湯は無料、立ち寄り湯すべて150円という安さ、訪れる方にとってはありがたいですね。

信州の鎌倉と称されるいで湯の里、島崎藤村ではないですが、「千曲川のスケッチ」とも言っておきましょう。いい温泉です。

■古戦場のいで湯「戸倉上山田温泉」

北国街道は追分で中山道とわかれ、小諸、上田などを経て坂城に至ります。坂城は千曲川沿いに開けた集落で、旧綴は坂木と書かれています。

戦国時代は村上氏の城下町で、北方を威嚇する葛尾山(かつらおざん)標高802mには、その居城(葛尾城)がありました。

村上氏は信州更科地方を本拠とする豪族ですが、前代の様子は明らかではありません。この村上氏が頭角を現してくるのは、建武年間(1334~37)で、建武3年(1336)当時、村上信貞(義光の弟)は「信州惣大将軍」と呼ばれているので、一時期ではあると思いますが、信濃守護職に命ぜられていたと考えられます。

信貞は更埴地方の北条与党の跡を基盤とし、塩田荘にも進出しました。葛尾山に城を築いた村上義清は信貞の血をひくといわれています。

ともあれ、村上義清は坂城を拠点にして、北信4郡を制圧し、小県(ちいさがた)・佐久地方へも進出しています。信州経略を目論む武田信玄にとって、義清は府中(松本)の小笠原長時とともに厄介な存在でした。

さて、武田信玄は諏訪氏の本拠の上原城、そして桑原城を落とし、いよいよ北信攻略にかかります。しかし、村上勢の士気は高く、上田原の戦い(天文17年/1548)、戸石城の戦い(天文19年)では、武田勢を徹底的に痛めつけています。

しかし、村上勢の抗戦はここまで、天文22年ついに葛尾城を失い、ついで最後の拠点であった塩田城も落ち、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に向かいました。こうして、いわゆる川中島の合戦が始まっていくのです。

葛尾城跡の下の千曲川畔に笄(こうがい)の渡し跡があります。村上義清が越後に走った時、その夫人が舟賃のかわりに笄を手渡したと伝えられている渡しの跡です。

では、笄とは何か、というといわゆる「髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具」であって、昔から女性の身だしなみ欠かせない道具として用いられていました。

ただ現在では笄橋がかかり、当時の面影はまったくありません。

坂城を過ぎると戸倉に至りますが、千曲川を隔てて戸倉上山田の温泉街が広がっています。背後の山が荒砥城址(あらと)で、川中島の合戦の1回目、2回目の時に、武田・上杉両軍の奪い合いになった有名な山城ですね。

村上義清の請を受けた上杉謙信は、直ちに武田信玄に宛て、村上氏の旧領返還を勧告しました。これによって出兵を正当化した謙信は兵を北信に進めます。

つまり、謙信は村上氏らのためという大義名分のもとに、信濃に出陣したわけです。

両軍の最初の出会いの場所は姨捨山(おばすてやま)麓の八幡と言われています。「お八幡さん」と呼ばれる武水別神社(たけみずわけ)付近一帯がそれに比定されていますが、冠着(かむりき)山麓が八幡とする説もあります。

これはこの地方に昔からある棄老伝説の姨捨山は、いまの冠着山であるとする説にもとずくものでしょう。

天文22年(1553)8月、信玄は小県に布陣していますが、謙信が川中島に出陣したとの報に接すると、直ちに川中島に兵を向けます。

これを知った謙信は迎撃すべく、荒砥城へと転進します。こういう点からみると、姨捨山を冠着山とする説もまんざらではないような気がします。

それはそれとして、川中島の合戦は、川中島ではなく、前期の戦いは戸倉温泉付近で繰り広げられていたということです。

ところで、武水別神社は八幡神社ともいうように、祭神は八幡神で、石清水八幡宮から勧請しました。この地方は昔、石清水の神領であったことがあり、その関係で祀られたものと考えられます。

古い時代には、農耕神としての性格が強かったようですが、平安の末期頃から武神として信仰され、武人の崇敬を集めたといわれています。

そういうわけで、社宝に「木曽義仲」・「上杉謙信」らの武将の戦勝祈願の願文が残っています。

さて、戸倉上山田温泉、伝えによると、その開湯は南北朝時代といいます。この地(更級)には宗良親王が滞在したとの伝承があり、佐良志奈(さらしな)神社の境内にはその供養塔というのがあります。

宗良親王が更級に滞在したのは、温泉が湧いていたためと伝承は伝えていますが、これについての確かな資料は残っていません。

温泉のことはともかく、この地の千曲川畔に信濃守護所が置かれていたという伝承は大いにあるのではないかと思います。

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実際には戸倉上山田温泉の開湯は、江戸時代後期と考えられています。温泉資料によると城山の南麓には「湯の窪」というところがあり、そこに温泉が湧いていたといいます。

しかしながら、その湯は弘化4年(1847)の地震で枯れたとされています。記録による確かな源泉発見は、明治初年、開湯は明治20年代から30年代にかけてだといわれています。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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