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【織田信長】の天下構想、そして本能寺の変

【織田信長】の天下構想、そして本能寺の変

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

戦国武将の中でもっとも波乱万丈に生きた「織田信長」、あまりにも有名な人物ですが、日本の歴史を語る上でも、混とんとした戦国時代の代表的人物を忘れてはいけません。

この「織田信長」を考える時、いつも思うのが「天下布武」という文字ですね。それではこの「織田信長」がいつごろから天下統一ということを考え出したのか、また、最期を遂げたといわれる「本能寺の変」、本当にここが最後だったのかを掻い摘んで記していきます。

 

■天下統一への野望

織田信長像

さて、信長はいつごろから天下統一ということを考えるようになったのか、それは少なくとも、永禄10年(1567)から使いはじめた「天下布武」印に、信長の天下統一への意気込みを読み取ることができます。

この点について、『信長公記』はおもしろいエピソードを伝えています。これは信長が、まだ尾張一国さえ統一しきっていない段階の話です。

ひとりの丹波の男が、関東に入ってみごとな鷹二連を手に入れ、尾張で信長に会い、「このどちらか気に入った方を差し上げましょう」といった。

すると信長は、「志はありがたいが、いずれ天下を取った時、もらうから、それまでそちらで預かってほしい」といって、その申し出を断っています。

丹波の男は、京の知人宅で、この話をし、「尾張のような田舎にいる小大名が、天下を口にするなど、ずいぶんな大ボラ吹きだな」といって笑いあったといいます。



確かに、まだ尾張一国の統一にさえ成功していない信長が、「天下を取ったら・・・」などといい出せば、頭がおかしいか、あるいは大ボラ吹きと受け取られても仕方がないのだと思います。

しかし、裏を返せば、その段階で天下構想が芽生えていたことは、紛れもなく事実だったといえるでしょう。

というのは、ちょうどそのころ、信長は藤原姓から平姓に名乗りを変えているからです。よく知られているように、「源平交換思想」といわれるものがあります。

読んで字のごとく、源氏と平氏が交替で政権をとるというもので、武士の世の中になってから、

平清盛➡源氏三代➡執権北条氏(平姓)➡足利氏(源姓)

というように、歴史的事実の中でそのような考え方が、生まれて来たものと考えます。

信長以前の織田家はもちろん、信長自身もまだ「天下構想」をもたない少年時代は藤原姓を名乗っていたのでしょう。

将軍足利氏は源氏であり、足利氏のあと天下に号令したいと考えるようになった時点で、源平交替ということから、平姓を名乗るようになったことは、疑問の余地はなかったように思えます。

では、信長は、将軍足利義昭にかわって、どのような「天下構想」を考えていたのでしょう。

平清盛は大政大臣という官職で政治をとり、北条氏は執権という形で政治をとりました。平清盛の大政大臣コースをねらったのか、北条氏の執権コースをねらったのか。

それまでの経過からも、明らかなように、源平交替ではありますが、これまでの将軍は源氏の者しか任命されていないという事情も無視できません。

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さて、信長は、将軍足利義昭のもとにあって、副将軍職や官領職を断り、室町幕府滅亡後もほとんど無位無官の状態で国政に参与してきました。

朝廷から信長に対して、官職の働きかけがあったのは、天正10年(1582)4月のことでした。

この年の3月、信長が甲斐の武田氏を滅ぼしたことにより、朝廷でもいよいよ信長を「武門の棟梁」と考えざるをえなかつたのだと思います。

そこで4月25日、信長を大政大臣か関白か将軍かに推挙するため、勅使を安土城の信長のもとに派遣することを決めています。

ここで注目されるのは、朝廷側が「いか様の官にも」といって、信長に大政大臣か関白か将軍かの選択を委ねている点です。

「将軍は源氏の者しか任命されなかった」という先例は、ここで完全に窟外されています。

「信長を大政大臣か関白か将軍に」という朝廷の決定を帯びた勅使が安土城下に到着したのは5月4日のことでした。

琵琶湖

信長は5月6日、勅使と会い、琵琶湖に船を浮かべて接待をしています。しかしこの時は、「どこの官にする」といった意思表示はしませんでした。多分「ご返事は上洛してから」と答えたのかもしれません。

信長が上洛したのは5月29日です。この時の上洛は、中国地方の毛利攻めに手こずっている羽柴秀吉を支援し、あわせて四国平定を後方から監督するものでしたが、中国・四国平定後に、朝廷からの申し出である任官を受けようと考えていたわけではなかったと思われます。

すでに関東の後北条氏、奥州の伊達氏は信長に通じており、中国・四国が平定されれば、残るは九州だけとなり、念願の「天下布武」がまさに完成します。

推測ですが「官位はその時」と信長は考えていたのではとおもいますね。

では、信長は大政大臣か関白か将軍のいずれを受けようとしていたのでしょうか。

しかし、6月2日、「本能寺の変」で明智光秀に討たれてしまったため、永遠に信長の真意を聞くことはできなくなってしまいました。

いろいろな説、また、多くの人達がこのことについて述べていますが、どれも理に適うものではありません。

あくまでも一人の人間として天下を取った時に何を思うのか、と考えた時、やはり信長の最終目標は「織田幕府」構想、だからこそ「将軍職」を受けるつもりだったと考えます。



■「本能寺の変」、信長の遺体は!?

本能寺

天正10年(1582)6月2日未明、京都の本能寺で起きた「本能寺の変」は、単に織田信長の死というだけではの事件ではなく、やはり、時代のひとつの変わり目を象徴的に示すできごとであったと思います。

このとき、信長自身は150人の近臣に守られていただけで、宿所の本能寺に居ました。

本能寺は塀や堀があったとはいえ城ではなく、結局信長は、多勢に無勢で追い詰められ、自らも槍をとったりして戦かいましたが、とうとう殿舎に火をかけ、切腹して果てたといいます。

信長を討つという目的を果たした明智光秀は、焼け跡に家臣たちを入れ、信長の遺体を探させました。

ひとつには、確実に信長を殺したということを確認するためであり、ひとつには焼けただれた遺体を三条河原にでもさらし、悪逆非道な信長を討った自分を正当化するための道具にしようと考えたのでしょう。

ところが、探せど探せども、信長の遺体は見つかりませんでした。

小瀬甫庵の『信長記』には、

其の後御首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども、何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり

と記されています。

「信長を討ったはずだが、首が見つからない」と慌てふためいている光秀の顔が目に浮かぶようです。

首が見つからなければ、下手をすれば猛火の中を逃げたのだということを考えられる。光秀は必死になって遺体を探させましたが、とうとう出てきませんでした。

宣教師ルイス・フロイスが、イエズス会総長に送った1582年(天正10)の「日本年報」にも、

或人は彼が切腹したと言ひ、他の人達は宮殿に火を放って死んだと言ふ。併し我等の知り得たところは、諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである

と記されているように、遺体が灰燼(かいじん)に帰してしまったことを伝えています。

首はおろか、遺骨すらも発見できなかったことは事実で、その年の10月15日、京都の柴野の大徳寺で、秀吉が行った信長の葬儀においては、あらかじめ二体の信長木像を作り、そのうち一体を焼いて灰にし、その灰を集めて遺骨のかわりに葬ったことによっても明らかです。

したがって、現在、大徳寺総見院にある信長の墓には、信長の遺骨は一片もありません。

しかし、なぜ、信長の遺体が見つからなかったのでしょうか。

火勢が強く、完全に焼け失せてしまったということがひとつ考えられます。それともうひとつは、遺体を明智勢の者が発見する前に、信長側の誰かが持ち去ったということも考えられます。

事実、本能寺の変後、信長の遺体を運び去ったという話も伝えられています。

織田信長の首塚

現在、静岡県富士宮市西山に西山本門寺という日蓮宗の寺がありますが、その境内に、信長首塚と呼ばれているものがあります。

「首塚の由来」によれば、本能寺の変の時、信長の碁の相手をしていた本因坊算砂(さんき)が本能寺にあり、原志摩守宗女に命じ、炎上する本能寺より信長の首を持ち出し、西山本門寺の境内まで運んで埋めたといいます。

この「首塚の由来」がどの程度まで史実を伝えるものであるかは、今となってはわかりません。



それはともかくとして、光秀がとうとう信長の遺体を発見できなかったことは、光秀の敗北を早める要因のひとつなったのではと思います。

というのは、本能寺の変後、毛利と和を結んで備中からとって返す途中の羽柴秀吉が、一例ではあるが、摂津の中川清秀という武将にあてて、「信長殿は明智光秀の襲撃を切り抜けてご無事でござる」といった趣旨の手紙を渡し、自軍への参陣を呼び掛けています。

首がない以上、「ひっとしたら信長は生きているかもしれない」と思うのが当然ですよね。

そのあたりの心理を秀吉はうまく使いながら、光秀との立場を有利にしていったものと考えられます。

逆に、光秀が仮に信長の遺体を探し出し、それを三条河原に晒していたら、あるいは光秀側に有利な状況も生まれたのかもしれません。

本能寺の変後の信長の消息に関しては、諸説数えきれないほどの説が生まれています。それだけ遺体が見つからなかったことに対しては不可解なことが多かったのだと思います。

ただ、私が思うに、もし仮に信長公が生きていれば、あの性格からして黙ってはいなかったように思えます。

天下統一に対して恐ろしいほどの執念を見せていた織田信長、間違いなく再び表舞台に立ち、日本という国を背負った「天下人」になっていたはずです。

これが現実になっていたら、安土桃山以降の日本の歴史は、大いに変わっていたかもしれません。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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