google-site-verification: google7d63d4ae4f776a04.html

【明暦の大火】江戸城焼く!

【明暦の大火】江戸城焼く!

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

江戸300年の間に、大火と呼ばれるものだけでも90件、記録に残るものだけでも1000件に達したといわれている江戸の火災。

まさに火事は喧嘩と並んで江戸の華だったかもしれません。その数ある江戸の火災の中で、焼失区域が最大であったのは、明和9年(1772)の大火であると思います。

今回はこの江戸の大火といわれる歴史的な災害記録を残した「明暦の大火」を記していきます。

■振袖火事伝説

明暦の大火供養塔

明和9年2月29日、目黒行人坂の大円寺から出火した火事は、麻布・芝・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草と焼いて千住に及びました。

夕刻、また本郷に火事が発生、駒込・谷中・根岸が灰になりました。死傷者数は1000人、大円寺に放火した長五郎坊主は6月21日に火あぶりになりましたが、江戸中引きまわしの折り、馬上から焼け跡を眺めながら、

「何とも気持ちよく焼けたじゃねえか。それにしても、こうあちこち引っぱりまわされるのはかなわねえ、おれも早く、こんがりと焼いてもらいてえよ」

と、ふてぶてしく言い放ったといわれています。

この目黒の大円寺に八百屋お七の恋人であった吉三の位牌といわれるものがあります。

「-----当堂常念仏開基 生蓮社方誉念阿西運大徳」

とあって、網野宥俊氏の研究によると、吉三はお七が火刑にされてのち、得度受戒して西運と号したという。「当堂」というのは、明治13年(1880)ごろまで大円寺の西隣にあった明王院念仏堂のことです。

スポンサーリンク



ここが廃寺になった時、いろいろな物品が大円寺に移され、その中にこの位牌がまぎれていたということです。この他「お七地蔵」という顔を左にむけた木彫りの立像物も現存しています。

これは、西運の晩年、お七が地蔵尊に変化して夢枕に立ち、近く往生の兆しあり、と告げた伝説にもとずいて制作されたものだと聞いています。

天和2年(1682)12月28日の「八百屋お七の火事」の出火場所も不思議なことに大円寺でした。

ただし、こちらの大円寺は駒込で、火の手は本郷・神田・下谷・浅草・日本橋から本所・深川までも焼土にしました。死者も3500人以上の被害を出しています。

また、この大火は一般的に言われているように、八百屋お七の放火ではありません。

いかに美貌でも江戸市中を焼き尽くすほどの火災を引き起こして、あれほど世間から同情されるわけがありません。

お七の放火は翌天和3年(1683)3月2日の夜のボヤであって、ほとんど実害のないものでした。

元禄12年(1699)、両国の回向院(えこういん)で備前誕生寺の本尊出開帳がありました。

その時、お七の家族から追善回向が依頼され、お七の晴れ着であった紫ちりめんの長振袖が奉納されました。

今でも誕生寺に保存されていると聞いてます。

明暦の大火が「振袖火事」とよばれ、「八百屋お七」に関係があるかの如く伝えられるようになったのは、この追善回向が背景にあるのではと考えます。

振袖伝説の定型は「矢田挿雲」の『江戸から東京へ』に見られます。概略を少し紹介すると、

麻布の質屋の娘梅野が上野付近ですれ違った寺小姓風の美少年に一目でほれ込んでしまった。それからというもの、少年が着ていたのと同じ「紫ちりめん」の振袖をつくってもらい、枕に鬘(かつら)をつけたものにそれを着せて、夫婦遊びばかりしていた。

そして翌明暦元年(1655)、17歳でこがれ死にした。菩提寺の本妙寺は納められた振袖を古着屋に売ると、明暦2年(1656)、梅野の命日に上野山下の紙商の娘きの(17歳)の葬儀で、再びその振袖が本妙寺に納まった。

そこでまた売りとばすと、翌明暦3年(1657)、本郷の麹商の娘いく(17歳)の葬儀で三度、振袖が寺にもどってきた。

さすがに住職も薄気味悪くなり、三人の娘の親を招いて法要を催し、振袖を火に投じた。おりしも一陣の龍巻が北の空から舞い下がり、裾模様に火のついた振袖を、さながら人間の立った姿で地上八十尺に吹き上げたため、雨と降る火の粉で、真下の本堂はたちまち出火した。

と、いう筋です。

とにかく、明暦の大火は本郷の本妙寺の不審火から始まったのです。それは江戸の多くの火災と同じく、放火によるものだと推定されています。



 

■「明暦の大火」の文献

『酉年火事翁問答』という、いつ、だれによって書かれたのかわからない明暦大火の文献があります。それにはこう書かれています。

盗賊がはびこっているのに役人は見て見ぬふりをしているので、益々甚(いた)だしくなった。明け方、北風に乗じて火を放ち、三方から焼き立てたので、殿舎楼閣寺社民屋ことごとく灰になった。

死者は数知れず、いくさかと思った民衆も多かった。わずかに焼け残った家屋も次々に放火された。そんな状態が一ヶ月半も続いた。

などと記されています。

丸橋忠弥ら由井正雪の一味が強風の夜、煙硝蔵(えんしょうぐら)に火をつけ、その爆発と同時に各所に放火して、市中を混乱におとしいれ、紀伊大納言の名を騙って江戸城を奪取する陰謀ありとして処刑されたのは、つい6年前の慶安4年(1651)のことでした。

蘭学者「杉田玄白」に『後見草(のちみぐさ)』という3巻の著作があります。その中・下巻は宝暦10年(1760)より執筆当時の天明7年(1787)に至る間の天災記で、玄白みずから記したものです。

上巻は「亀岡宗山」の明暦の大火体験記『明暦懲毖録(ちょうひろく)』を筆写したものです。玄白はこの記録を宗山の孫「伊予」から借覧したといいます。

「亀岡石見入道宗山」は正徳5年(1715)に59年前の明暦の大火の「書置」をつくりました。宗山は幕府の石工棟梁で、大火当時は久三郎といい、18歳でした。

玄白はこういっています。

これは有名かつ通欲的な『むさしあぶみ』などとは違い、真実の私記である。

と、ことわり書きをし、さらに、

「ーー―其文質にして、今猶其時を見るがごとく、人をして恐怖せしむるに至らしむというべし」

と評しています。

それでは、亀岡宗山の見聞を中心にして、「明暦の大火」とはどのような惨事だったかを記していきます。



 

■本妙寺からの出火

宗山の記述は明暦2年(1656)10月16日夜の呉服町火事から始まります。

この火災で中橋南榎町(現、中央区八重洲4丁目と京橋1丁目の内)の本邸が類焼した。そこで鉄砲洲の屋敷に移った。この屋敷は数寄屋造りの小座敷や能舞台などもあり、なかなか凝った造作であった。

また、土蔵には狩野三兄弟の描く屏風や能装束もあり、生活にも不自由はなかった。だが、正月から江戸城本丸の修理にとりかかることになっていたので、鉄砲洲からでは通勤に遠すぎる。

そこで、12月中旬、中橋の焼跡に小屋を建てて住んだ。

年が明けて明暦3年(1657)正月2日、亀岡久兵衛と久三郎親子は夜明け前から年始の登城をし、白書院の帝艦の間の近くに控えていた。

将軍家綱も表に出て拝賀の礼を受けた。久三郎より一つ年下で17歳、病気がちなせいか温和な性格である。午前9時ごろ、城内がにわかに騒然となった。

何事かと思っているうちに煙が流れ込み、火の粉まで庭に降りはじめたので大騒ぎになった。半蔵門外堀端の松平越後守光長(越後高田、25万石)の屋敷が炎上したのである。

そのため、年頭の儀式は大半が中止になり、亀岡親子も城からそがった。火災は午後4時ごろ鎮火、江戸城は無事であった。

11日、江戸城本丸で釿(かんな)始めの行事があり、亀岡久兵衛・久三郎も参加した。16日、亀岡親子は二の丸門外に石切の鍛冶小屋を建てた。21日から工事にかかる予定であった。

前貸金五百両は18日午前10時、手代が御金蔵まで行って受け取ってきた。この18日は朝から激しい風で、ほこりが舞あがり、前後が見えぬほどであった。

久三郎は道中難渋しながら本郷弓町(現、文京区本郷)の次郎兵衛宅を訪れていた。岡田七郎右衛門・小足長兵衛が同行していた。次郎兵衛は岡田の伯父で台所方に属しており、料理上手という評判であった。

座敷で雑談をしていると、台所の方が急に騒がしくなった。下男の喧嘩沙汰かといぶかっていると、次郎衛が顔を見せて、近所の本妙寺から出火した告げた。

もう、その時には室内に黒煙が侵入し、庭の木は火の粉をかぶって燃えはじめていた。台所にはすでに膳が並べられて汁などが盛られており、庭先に置いた長火鉢ではかまぼこが焼かれていた。

久三郎たちは次郎兵衛に挨拶もせず、かまぼこや盆に乗っていた柿・みかんをふところにねじ込んで表にとび出した。そして、ひたすら筋違橋(すじかいばし)の方に向かって逃げた。

筋違橋まで来て、ふりかえってみると、神田明神が火に包まれており、東は下谷方面、南は駿河台にそれぞれ数本の火の手があがっていた。

「これはただごとではない。由井正雪の残党が方々に火をつけたのではないか」と思った。三人は火を避けながら南へ南へと逃げ、ようやく日本橋にたどりついた。

■鎮火、そして再出火

猛火は本石町から本町まで焼きはらったが、夕刻から風が急に西に変わったため、鎌倉河岸(現、千代田区内神田)の火は神田橋に移らず、はるか六、七町もへだてた一石橋近くの鞘町(現、中央区日本橋本石町)に飛び、東に動いて伊勢町より江戸橋付近で川を超え、茅場町から八丁堀方面にまで広がっていった。

日本橋の上には火に追われて南に避難する人々と荷物を満載した車長持で身動きができぬほどであった。

この時代、まだ大八車が普及していなかったので、長持に車をつけたのを引きずって逃げたのである。

久三郎たちはやむを得ず、橋の外側、幅一尺ほどの板の上を欄干にすがりつきながら、おそるおそる歩いて、やっと川の南岸に渡ることができた。

そこから呉服橋の方に行くと風向きのせいか煙が薄くなっていたので、わりに苦労なく堀端に出られた。中橋の小屋にたどり着いたのは午後5時ごろであった。

亀岡の家では、父の久兵衛が小船町の石川六兵衛のところに出かけたまま、帰ってこないので心配していた。六兵衛には久三郎の妹が嫁いでいる。

石川家は江戸指折りの豪商なので、久三郎の妹も贅沢三昧の生活に恥っていたらしい。

後年、石川家は、この妹が将軍綱吉の寛永寺参詣の行列を豪奢(ごうしゃ)な装いで見物したために、財産没収、江戸十里四方追放の処罰を受けることになる。

夜明けごろ、浅草門付近(現、千代田区東神田の東部、浅草橋)で相当な死人が出たという噂を聞いた。

しばらくして下男が戻ってきて、久兵衛は怪我もなく無事でいることを告げた。

ほどなく久兵衛も元気な顔を見せた。話によると、石川一家と柳原土手の南寺町、雲光院に逃げ込み、墓地内の堀にはいった。

そして蓆(むしろ)や畳を水に濡らして頭にのせ、火の粉を払いながらようやく生命をつないだ、ということであった。

雲光院といえば二万三千人が焼死した浅草門近くの寺である。本当に幸運であった。

石川一家は夜が明けると小船町の焼跡に残った土蔵に帰った。それを見届けて久兵衛も中橋に戻ったのである。

大火は木挽町から芝までを灰にして19日午前2時過ぎに鎮火したが、そのため鉄砲州の屋敷も全焼した。

あたりに繋留中の船数百隻も炎上し、船火事の飛び火で佃島(現、中央区佃一丁目)が焼け、神田橋・常盤橋・呉服橋の各門が罹災した。

橋も大部分が焼け落ちた。ただ、一石橋(日本橋の西、呉服橋の東にある)だけが奇跡的に残った。

翌19日も強風が焼きぼこりを吹き立てて、さながら暗夜のようであった。宗山(久三郎)は、

ーーー昼九ツ時過、牛込辺より又出火致し・・・

と記しているが、正確には午前11時過ぎ、出火場所は小石川伝通院表門下、新鷹匠町大番与力衆の宿所である。その火で水戸屋敷(現、文京区後楽)が類焼した。

それを聞いた久兵衛は、「先日建てた二の丸百人番所前の鍛冶小屋は板屋根だから、火の粉がかかると危ない。早くこわそう。」

といって、手代以下9名を率いて登城した。久三郎も馬でついて行った。出かけに母が餅をたくさん焼いて紙に包んでくれた。

■江戸城が焼ける

大手門の橋の前では藤堂大学頭高次(津、32万石)の家臣数百が鉄砲や槍をかまえ、堀端には譜代大名の手の者がびっしりと詰めていた。

久三郎は、「単なる火事さわぎには見えない」と驚いた。

橋の上には目付の喜多見久大夫が立っていたので、久兵衛が、「先日建てた鍛冶小屋を防火のためにこわしたい」と願いでると、「もっともである。早々に行かれよ」と通してくれた。

久三郎らは急いで小屋を破壊してから、再び大手の方に出ようとして、ふと見ると、下馬先の老中酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷から真っ赤な火柱が立ち上がっていた。

久三郎はその近くで乗り捨てた馬がどうなったか心配になった。江戸城は黒煙に包まれて、午後2時ごろなのに、高提灯をかかげて通行するありさまであった。

所々に貯蔵された火薬がしきりに爆発し、その凄まじい音が周囲に響き渡った。天守閣や本丸・二の丸御殿からは真紅の火焔が吹き出していた。

将軍家綱が重臣たちと西の丸に避難をはじめたのは午後3時ごろであった。久三郎は大勢の役人や女中衆が陸続と蓮池門に向かっているのを目撃した。

久兵衛や久三郎と手代たちも西の丸に向かった。途中、富士見櫓が轟々と音を立てて燃えている前を通り抜けたが、あまりの熱気で身体が溶けるかとさえ思われた。

ようやく坂下門外に出たが、ここも人馬でごったてがえしていた。馬場先門から外桜田門にかけての大名屋敷が、みな炎上したため、何万という群集が、西の丸の下馬先に避難していたからである。

その中をどうにか諏訪部彦兵衛が管理している西の丸厩舎まの塀までたどりつき、そこで一夜を明かすことにした。

母が焼いてくれた餅はもう固くなっていたが、それで空腹をしのいだ。ほとんど立ちどうしだったので疲れて、苦痛であった。

天の助けか、西の丸やその近く紅葉山東照宮は、ついに類焼をまぬがれた。

上様は井伊掃部頭(かもんのかみ)直孝(彦根32万石)の赤坂の屋敷へ移ろうとしたが、永田町あたりの火災がひどくて通行ができず、山里御茶屋に入られた。

本丸の火の粉が雨のように降ってきた折、天守閣の二重目の北側の銅窓が、なぜか内側から開いて火を吸い込み炎上した。などという噂を聞いた。

スポンサーリンク



■積み重なる焼死体の山

夕刻4時、麹町5丁目(現、千代田区麹町)の町家からも出火したため、被害は益々大きくなっているようであった。

20日の夜明け、久兵衛・久三郎の一行は外桜田門を出て、堀端の日比谷門を通った。目の前で伊達睦守忠宗(仙台、61万石)の上屋敷が燃えていた。

その火を突破して数寄屋橋門(現、千代田区有楽町)にさしかかったが、株木(かぶき)扉が焼けてしまって通ることができない。

鍛冶橋も焼け落ちていたので、鍋島喰違門(くいちがい)にまわった。土手にのぼって芝方面をみたところ、焼跡に増上寺の本堂だけが、ぽつんと望まれた。

そこから三島町・紺屋町河岸(現、中央区銀座一丁目)を通って京橋に出た。橋は焼け落ち、男女の死骸が山のように重なり、川には無数の死体が流れていた。

昨日、火の包囲された群衆二万六千人が無残にも焼死したところである。久兵衛・久三郎らは死人を踏みながら川を渡って、南伝馬町(現、中央区京橋一、二丁目)に出たが、ここも道路は焼死体で埋まっていた。

中橋の屋敷にもどってみると、20人ぐらいが黒焦げになって死んでおり、性別も確認できぬほどであった。その惨事には久三郎も息をのんだ。

焼跡で茫然としていると、西側の堀端で人の気配がした。行ってみると亀岡家の下男が二人倒れていた。一人は九兵衛で半身をやけどして手足が不自由になっていた。

両人の話によると久兵衛の家族は無事に小船町の石川家の土蔵に避難した。

■「明暦の大火」まとめ

ご覧の通りこの大火がどのような惨事だったかが分かると思います。文章は分かりやすくするために、自分の見解と宗山の残した『書置』をおり交ぜて記しています。

すべて記していくと、あまりの長文になっていくので、要所をつなぎ合わせて記述しています。ご容赦ください。

さて、鎮火したこの夜、関東地方は大雪が降り積もり、寒気が厳しかったことも宗山は書き記しています。

また、この寒気と大雪のおかげで、焼け出された民衆の多くは凍死したと記されています。

二日間続いたこの大火は、大名屋敷160、旗本屋敷770余り、町屋は両町400町(片町で800町)、寺社350、橋60、倉庫9000が焼失しました。

死者は『むさしあぶみ』によると、102000人以上といわれています。多分、日本の歴史上最大の火災であったのではないでしょうか。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

スポンサーリンク



※ブログ内の記事はこちらからどうぞ。



※旅行に関するブログです。興味がある方は覗いてください。