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江戸時代の怪奇現象

江戸時代の怪奇現象

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

江戸時代の書物には、今でいう「怪奇現象」という記述が沢山残されています。この時代だからこそ起こり得たという出来事もありますが、いわゆる「がさネタ」も多く存在します。

今回はその中でも信用性のある資料をもとに「江戸時代の怪奇現象」という命題で話しをしていきたいと思います。

空を飛ぶ火の玉、火を吐く狐、飛行する神々と、揚げれば切りがありません。摩訶不思議な出来事の数々を拾い上げて記していきます。

■空を飛ぶ火の玉

京都町奉行所の与力であった神沢杜口(かんざわとこう)が書いた『翁草(おきなぐさ)』は寛政3年(1791)に完成した大著ですが、その中で著者が生涯一度の不可解事としている怪奇をまず紹介していきます。

早春の夜、謡曲の会から帰宅して門の前に立ったとき、月光が異様に冴えわたっているのに気付いた。「今は上旬の月、月の出る位置がちがうし、こんなに明るいはずがない」と、不思議に思って四方の空を見れば、奇怪な火の玉が、凧などの風に漂い行くがごとく、ゆるやかに東の方へ飛んでいる。

それが、いづれかへ消え去ったとき、あたりは元の常闇につつまれた。

日本史上、不可思議な光物が飛んだ記述は少なくありません。とくに江戸時代に多くの記述が目立ちます。

升型の異星や提灯ほどに見えた火鞠(ひまり)、あるいは牛に似た怪獣や、狩衣を着て馬に乗った若武者などが空を飛んでいます。



甲子夜話(かつしやわ)』は文政4年(1821)の甲子の日の夜に起稿した前平戸藩主・松浦静山の編纂で、怪奇現象も数多く取り上げています。

この好奇心の強い殿様は、ハレー彗星が大接近した天保6年(1835)8月、西方より南へ白光を引くことおよそ四、五間(約8m)という大彗星を観測しています。

その松浦静山は、文政10年6月初句に起きた、駿府近辺の奇変を次のように書きとめています。

昼七ツ時(午後5時ごろ)雷のごとき響きがしばらく天をゆるがせ、人々は 屋外へ飛び出した。正体を見たのは漁民で、山の彼方より轟音をともなつて四斗桶ほどの大きさの火が三つ飛来し、二つは海上の黒雲へ入り、一つは海中へもぐりこんだ。

海中でも轟音が響いた。この恐ろしい光景は、遠州の人々も見たという。

建部綾足(たけべあやたり)著書『折々草(おりおりぐさ)』にも天空の奇怪が記されています。

明和7年(1770)7月中旬の夜、京都の西方から二尺(約60cm)ばかりの火の玉が北東をさして飛んだ。あたりが急に明るくなり、路上の塵(ちり)や埃(ほこり)まではっきり見分けられるほど。

鴨川辺で見た人は比叡山を飛び越えて行ったと叫び合った。伊勢でも、大きな薪(たきぎ)の端に火がついたようであったという。

昔の人が「光り物」「火車(かしゃ)」と呼んだ空飛ぶ火の玉は、隕石、あるいは突風で燃えたものが飛んだ姿であったり、稲妻やその雷光に反射する流れる雲などに解されますが、UFOの可能性もありだと考えています。

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また、紀伊徳川藩士・神谷養勇軒が、君命によって著した『新著聞集(しんちょもんしゅう)』の中にある火車は不気味です。

寛文10年(1670)大村因幡守が備前の浦辺を御座敷船で通りかかったとき、丸い黒雲が飛んできた。中から「ああ、悲しや」という叫び。

見れば、黒雲から人間の足がたれさがっている。近習の者が、その足に飛びついて引き下ろしたところ、老婆で、すでに死んでいた。

彼方の浜辺で人々が騒いでいる。因幡守が家来をやって尋ねさせると、在所の木材屋の老母が外へ出たとき、不意に黒雲がおりてきて、一瞬のうちにおし包み、舞い上がっていったのだという。

息子を船に呼んであらためさせると、やはり自分の母というので死骸を引き渡した。

さらにこの同書には、江戸の増上寺第三世・音誉上人が火車に乗って他界したことも記されています。

高僧として知られていた音誉は、ある日、信徒を集めて「われ、今日、遷化(せんげ)するなり」と告げ、山門を出た。信徒たちが不審に思いながら見送ると、炎を輝かせた火車が雲の中からおりてくるではないか。

上人は、手に持つ扇で火車を招き寄せ、それに乗り移って西方浄土へ飛び去って行った。

滝沢馬琴編の『兎園小説(とえんしょうせつ』に絵入りで紹介されている奇事は、小型宇宙船を連想させます。

享和3年(1803)2月22日の正午ごろ、四千石の旗本小笠原越中守の知行所・常陸国はらやどり浜沖に舟のごときものが漂流していた。

浦人たちが救助に出てそれを引き寄せた。舟は、やや平べったい球型で、長さ三間(約5.4m)あまり、全体は鉄板ばりだが上部は硝子障子で、内部がよく見える。

座席に異様なる一人の婦人がいた。赤毛で顔は桃色、頭部から白い仮髪(いれがみ)を長くたらしている。衣服は筒袖、腰より上を細く仕立てていた。この蛮女は二尺四方の箱を大事そうに持っていて、決して離さない。

船内には意味不明の異様な文字が書かれてあった。女は、浦人が評議しているのを、のどかに眺めつつ微笑んでいる。相談の結果「官府へ届ければ費用がかかるし、何かと面倒だ」と、もとに戻すことに決まり、その不思議船を沖へ引いていって突き流した。



 

■妖火のかずかず

身近に出没する火の玉は、「狐火(きつねび)」・「鬼火」・「人魂(ひとだま)」などと呼ばれ、幽霊とも結びつきます。

寛保3年(1743)刊の菊岡沾涼(きくおかせんりょう)著『諸国里人談』に「二恨坊(にこんぼう)の火」という怪奇がのっています。

摂津国高槻庄二階堂村に、大きさ一尺ばかりの火の玉が出現して、もう三ヶ月あまりになる。家の棟や樹木の梢などにとまっているのだが、目耳鼻口のようなものがあって、さながら人の顔である。通行人に害を与えるわけではないので、村人はそれほど恐れてはいない。

昔、このあたりに日光坊という山伏が住んでいて、村長の妻の難病を、その閨(ねや)にこもって十七日間加持祈願し、全快させた。

ところが村長が、女房と山伏が密通したと疑い、日光坊を殺してしまった。不治の病気を平癒させた思いを謝せず、そのうえ殺害という二つの恨みが妄火となったのであろう。

火の玉が村長の家の棟に毎夜飛来し、ついに村長を狂死させた。このことから、日光坊の火と称したのだが、いつしか二恨坊の火というようになって、いわば村人にはなじみの火の玉であった。

狐火を観察したのは、明和7年(1770)生まれの越後国の知識人、鈴木牧之(ぼくし)です。主著である『北越雪譜』に記しています。

ある夜の深更のころ、二階の部屋で書見中、ふと窓に火が映っているのに気付いた。怪しんで、すき間からのぞくと、雪の上に狐がいて、口から火を吐いている。

よくみれば吐く息が燃えているのだ。そのさまは、口より少し上で燃えており、火を出すときと出さないときがあることがわかった。

牧之は「狐が肚中(はらのなか)の気に応ずるならん」と思考し、「狐火は玉が光るのではない。狐の玉という光り物と、常に見る狐火とは別である」と結論づけています。

また、松浦静山が『甲子夜話』に書いている人魂の話があります。

本郷丸山の福山候別荘で、夏の夜、光り物がしばしば飛んだ。人魂に違いないと、竹竿で打ち落とすとヒキ蛙になった。何度やっても同じことなので、人魂とはヒキ蛙が飛行している姿だ、と人々は長年の疑問を解いたという。

さて、本当かウソか、今となってはよくわかりませんが、とりあえず面白いので記しておきます。その話とは、幽霊を煮て食った話が『耳袋』に記しています。

著者の根岸鎮衛(ねぎしやすもり)は、寛政10年から文化12年にかけて南町奉行を勤めた旗本です。

文化二年の秋、四谷に住む若侍が所用で夜道を急いでいた。行く手に、白い装束の怪しげな者が歩いている。目をこらすと、腰より下が消えている。これこそ幽霊というものか、と勇を鼓舞して後をつけると、急にふりかえった妖怪は顔に大きな目が一つ光っているのみ。

若侍は走り寄って、抜き打ちに切りつけた。ぎゃ、と叫んで倒れたところを取りおさえ、とどめを刺してよく見れば、なんと大きな五位鷺(ごいさぎ)ではないか。

そこでかついで帰り、友人たちと調理した。つまり、幽霊を煮て食った、ともっぱらの評判になったわけである。



 

■異変と神託

東西遊記』は京都の医者、「橘南谿(たちばななんけい)」が天明2年(1782)から前後合わせて5年間、日本国中を旅行した時の見聞実録です。

その中の、奥州津軽領三馬屋という松前渡海の港で、地元の古老から聞いた津波の前兆談は、まさに奇怪と言えるでしょう。

今から30年前のその当時、風雨もなく静かな日々がつづいていた。だが、何となく空の様子が不気味で、夜になると時折、光り物が出現した。

やがて、白昼にも神々とおぼしき姿が飛行(ひぎょう)しはじめる。神々は竜や象にのっており、装束も白、赤、青と色々で、姿も大きいもの、小さいもの、異類異形の仏神が空中にみちみちて、東西に飛行し給う有様になった。

海辺の人々は外へ出て「不思議なことよ」といいあいながらも、有難く拝んでいた。そんなことが四、五日つづいた夕暮れ、沖のほうを見ると、真っ白な雪の山のごときものがそびえている。

たち騒いでいるうちに、その山がぐんぐん近寄ってくる。「津波じゃ、早く逃げよ」と口々に叫んで老若男女がわれ先に逃げ迷うたが間に合わなかった。

轟音とともに、人、家、田畑、草木、禽獣(きんじゅう)、ことごとく吞み込み、海底の水屑(みくず)と化してしまった。

この惨事を目撃した山辺の者たちは、「さてこそ、初めに神々の雲中を飛行し給えるは、この大異変のあることをしろしめされたのであろう」

と語り合い、後世のいましめとして言い伝えている、ということであった。

実際にこのブログにも「三陸津波の歴史から見た、東日本大震災」というテーマで津波の恐ろしさを記しています。神々が空を飛行した、という表現は空や雲に異変が生じ、色や形がそのように見えたのかもしれません。

記している表現はあまりにも異径すぎて参考にはなりませんが、江戸時代に東北地方には多くの津波が襲ってきているのは歴史上の史実に多く残されています。

また、過去の悲惨な出来事を繰り返さぬように、丘の中腹には今でも戒めの石碑があります。これは怪奇現象というよりは、自然災害の記録ととらえたほうがいいのかもしれません。

さて、橘南谿は南にも旅をして、鹿児島桜島の山汐(やましお)の奇怪も記述しています。

桜島といえば鹿児島県の象徴でもあり、私の故郷でもあります。帰省するたびに桜島の勇壮な姿を見ることを楽しみにしていますが、記述を語る前に、桜島の歴史を少し紹介しておきます。

鹿児島県、鹿児島湾(錦江湾)の中にある東西約12km、南北約10km、周囲約55kmの火山で、もともとは島でした。大正3年(1914)の大噴火で陸続きになり、現在に至っています。

この鹿児島湾は大きな海底カルデラ(姶良カルデラ)が存在し、古代にはとてつもない噴火活動が継続していたと見られています。

このカルデラが形成されたのは約3万年前、桜島はそのカルデラの南側に位置し、カルデラ形成後約3千年後に誕生したと考えられています。



また、いくつかの山に分かれており、北岳・中岳・南岳の1000m級の山を中心に、寄生火山(側火山)や溶岩ドームを含めると9個の山で形成されています。

噴火活動は有史以降、約30回以上数えており、特に文明・安永・大正の大噴火がもっとも大きな噴火活動と記録されています。

さて、橘南谿の記述は安永の大噴火の記録であり、目の当たりに見た現実を書き残しています。

安永8年(1779)10月、桜島が噴火した。その恐怖がようやく収まったころ、再び山の峯が震動しはじめた。「すわや又焼け上がるか」と注視していると、頂上から雪のとけるがごときのが、真っ逆さまに落ちてくる。

「何事じゃ」と言い交わす間もなく、大水が山を砕き、巨石を飛ばし、樹木を根こそぎ抜いて頭上に迫り、ものすごい勢いで、人馬も家屋も田畑も海へ突き流してしまった。

水筋はえぐれて谷と化し、岡の上や田畑に五、六丈(約16m)に及ぶ石がごろごろ残っていた。

また、京都で二尺ばかりの火の玉が飛行したことを報じた『折々草』には、その数日後(明和7年7月)夜空が赤く染まった奇異が付記されています。

日没後に、鞍馬山のむこうあたりが真赤になり、山火事のようだった。よく見ると火事ではなく、むろん夕陽の名残ではない。

赤い光が幾条も立ち昇って、たなびいているのだ。大和地方では京都が焼失したと騒ぎ、ある者たちは昔の言い伝えにある「火の雨」と信じ、地下に穴を掘って潜り込んだり、山奥の洞窟へ逃げた。

■神獣の祟り

自然現象と縁の深い妖怪に竜があります。竜は大蛇に似た形で4本の足と2本の角と大きなひげを持つ巨獣で、平常は池や沼、または海底に住み、何かの折に天へ舞昇って雲をおこし、暴風雨を呼ぶと信じられてきました。

『東西遊記』には越中、越後の海より、夏の日、黒竜が登ること多し、と書かれています。

黒雲が空より下りてくるくるや、海中の潮水がその雲に乗じ、逆巻きのぼって黒雲の中に入る。それをくわしく観察すれば、竜の形で、尾頭などもたしかに見え、潮が巻のぼるところは竜を逆しまに懸(か)けたようである。

また、海底に大竜が蟠(わだかま)っているを見た人もいる。

と記しています。

『北越雪譜』にある竜燈(りゅうとう)」の話は次のとおりです。

越後の米山に薬師堂があり、6月12日の夜に決まって、竜神が薬師如来にささげる不可思議な灯明が出る。著者の知人が、この日、山ごもりをする参拝人たちと薬師堂近くの小屋に閉じこもり、その竜燈を見た。

日没後、蛍火の色に似た光が、いづくからともなく集まり、堂の前で遊ぶがごとく飛行しはじめた。

大きいのは手毬ほど、小さいのは鶏卵ほどである。

人々は、小屋のすき間から息をつめて、のぞいている。小屋の近くに舞いめぐってきた竜燈をすかし見れば、鳥のように見えて、光は喉の下より放っている感じだ。若者が猟銃をかまえて撃ち落とそうとした。老人があわてて「まて、罰あたりめ」と叱った。

この声におどろいたたのか、竜燈はたちまち遠くへ飛び去って行った。

この竜燈については、色々な説があります。日本でも「柳田国男」や「南方熊楠」などの解釈がなされていますが、実際のところは分かっていません。

現代でも起こっていて、広島県の厳島神社の例を筆頭に日本全国の神社や寺、また、山岳部に例があり、一般的には竜神の住む川や池などに現れる妖火とされており、神聖視されています。

江戸時代には、こういった怪奇現象と言えるべき記録が数多く残されています。また、実録的なものや架空的なものと数えきれないほどです。

ここに紹介したのはごく一部で、調べ上げるときりがありません。こういった書物を資料に全国を旅するのもひとつの愉しみと考えております。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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