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お市の方(織田家の家系図)

お市の方(織田家の家系図)

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

「お市の方」はみなさんご存知だと思います。定説としては、織田信長の妹であり、小谷(おだに)の方、もしくは小谷殿とも呼ばれています。

このお市に関しての記録や史実史料が非常に少なく、特に幼少のころの記録はほとんど残っていません。また、生年月日や浅井家に関しても、事実上、確定した史実とはいいがたい面があります。

政略の具として浅井長政と柴田勝家に嫁し、北ノ庄城の炎の中で生涯を閉じた戦国の佳人「お市の方」、今回はこの方をテーマに持論を展開していきます。

■お市は信長の妹か、それとも従兄弟の子か! ?

お市の方絵図

お市の方が生まれたのは天文16年(1547)というのが通説となっています。各種日本史辞典や人名辞典の類はみな天文16年説をとっています。

ところが、『国史大辞典』は生年不詳としています。良質の史料に依拠すれば生年不詳とするのが本当のような気がします。

また、通説では、お市の方は信長の妹とされています。確かに、各種の織田氏の系図には、信長の妹として、浅井長政に嫁いだ女子であったことが見え、そのような系図を見る限り、お市の方が信長の妹であったことは疑う余地もありません。

ところが、そのような系図の中にあって、わずか一つだけですが、お市の方が信長の妹ではなかったことを記しているものがあります。

具体的に言えば、それは『続群書類従』所収の「織田系図」で、簡略化して図示にするとこういうことです。

お市の方家系略図

信長の父、信秀の弟信康の子に興康(ともやす)という者がおり、興康の子に女子がいて、その女子に「浅井」という注記がされています。

信長と興康は従兄弟の関係になり、信長は、自分の従兄弟の娘を自分の妹という形にして、浅井長政に嫁がせた可能性があります。

あくまで可能性があるというだけで、興康の娘のところにある「浅井」という注記が、何も浅井長政のことを指すとは限らないわけで、浅井という苗字を名乗る武将は尾張にもいたのだから、簡単に「浅井長政」と決めつけてしまうのは危険だと考えています。

しかし、当時の政略結婚において、他人の娘を養女とか妹とかいう形で嫁入りさせる例は、かなり一般的にみられることも事実です。



さて、これまでに見た限りでは、系図類において、お市の方は信長の妹ではないことを記しているのは『続群書類従』所収の「織田系図」だけですが、実は、系図ではありませんが、史料ととしてはもうひとつあります。

筆者不詳の『似貴小伝』という書物で、同書の徳川秀忠夫人の項に、このように書かれています。

御所の御台所は、贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守との御事なり)の御女にて、御諱は達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹なり(諸書にしする所みな妹といふ。しかるに溪心院という女房の消息を見しに、信長のいとこなりという。

若しくはいとこにておはせしを妹と披露して長政卿におくられしや)。御兄右府のはからひにて長政卿に嫁し、姫君三所をまうけ給ふ。

と記されています。

「溪心院といふ女房の消息」がいかなるものであるかはわからないので、何とも言えませんが、少なくとも『似貴小伝』が書かれたころには、そのような所伝があったことはわかります。

ただし、この場合には、先の系図でみたように、信長の従兄弟の子ではなく、信長の従姉妹であったということになります。父信秀の兄弟たちの誰かの子どもであったのかもしれません。

信長の妹たちの嫁ぎ先をみると、このお市の方だけが特別だったことがわかります。すなわち、嫁ぎ先が判明しているものは、例えば織田信直とか織田信成といった一族、さらには、佐治為興・津田出雲守・飯野信宗・牧長清・津田元秀などの近臣であり、同盟のための政略結婚として妹たちを利用していません。

もちろんお市の方のときだけは、そのようなことはいっておられず、どうしようもなく嫁がせたとみることもできるわけですが、この事実は一考の余地があるのではないかと考えています。



■浅井長政との結婚

浅井三姉妹の記念碑

お市の方が、信長の実の妹だったのか、あるいは従兄弟の子どもだったのか従姉妹だったということは、これ以上の解釈はできません。

ただ、そういった史実を書いている書物もあるということだけは知っていただきたいと思います。現代に生きた人ではない限り、過去の記録だけでどうこう言えることでもないと考えているし、戦国の世に生きた人々の悲痛の声が、かいま見えてきます。

さて、お市の方は信長の妹というふれこみで浅井長政のもとに嫁いでいったことは事実ですから、政略結婚の効果としては十分にその役割を果たしています。

そこで、お市の方が、いつ浅井長政のもとに嫁いでいったのかを問題にしていきたいと思います。

結婚の時期によっては、信長と長政の同盟が遠交近攻策型の同盟になるし、また、単なる近国同盟ともなるからです。

お市の方が長政に嫁いでいった年次を一番早く考えているのは、『川角太閤記』で、それによると、永禄2年(1559)に婚約し同4年(1561)に奥入れしています。

次が典拠は不明ですが、高柳光寿・桑田親氏が説く、永禄6年(1563)説です。

そして1年違いではあるが、『浅井三代記』がいう永禄7年(1564)3月説です。

時期的に一番早い永禄4年説は、浅井長政の名乗りの変化とも連動しています。というのは、浅井長政の最初の名乗りは賢政であり、賢政から長政への改名が永禄4年であり、これは、信長の偏諱を与えられたからとする(東浅井郡志、第二巻)ということです。

しかし、家臣でもない、対等な関係で同盟を結んだ浅井氏が、わざわざ信長の偏諱を受ける必要もないし、また、結婚を契機に名乗りを変える必然性もありません。



では、永禄6年、7年説はどうなのか、確かにそのころ、信長は美濃への攻略を始めます。

斎藤義龍死後、家督を受け継いだ龍興を倒そうと、あの手この手で美濃への進出を図りますが、美濃を落とすのは容易ではなく、そこで、美濃の向こう側に位置する近江の浅井長政に目をつけ、長政と結んで、両サイドから真ん中の斎藤龍興を挟み討ちにしようと考えたとする。

いわゆる遠交近攻策型の同盟です。その同盟を結ぶために、妹のお市の方を嫁がせたという説です。

長いこと、長政とお市の方の結婚については、この遠交近攻策型の同盟による政略結婚の典型例として考えられてきました。

ところが奥野高広氏は、お市と長政の結婚はそんなに早くはなく、永禄10年(1564)末か、翌年の早々ではないかという説を提起しました。(「織田信長と浅井長政の握手」『日本の歴史』248号)。

奥野氏は浅井長政が信長の家臣市橋長利に宛てた書状に検討を加えています。その書状を読み下しにして揚げて見ましょう。

いまだ申し述べ候はずといへども、啓達候。尾張守之書状をもって申し候。よろしく御執り成しに預かるべく候。よって太刀一腰・馬一疋進覧候。向後申し承る便までに候。尚氏家方・伊賀方伝説有るべく候。恐々謹言。

九月十五日           長政(花押)

市橋伝左衛門尉殿        御宿所

この文書は見てのとおり無年号文書です。

しかし、文中「尾張守」とあり、信長が尾張守を称するのは永禄9年(1566)9月13日から同11年(1568)までのことであり、また、文中に永禄10年(1567)に織田方についた氏家ト全と安藤守就の名がみえることから、この文書は永禄10年9月15日付であることが分かります。

しかも、この時、浅井長政は市橋長利を介して信長に太刀、馬を献じ、接近を図っていることが明らかとなります。だからこそ長政とお市の結婚は、この書状より前ではあり得ないということになるのです。

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私もこの奥野氏の考え方には同調できます。すでに結婚して義兄弟の間柄であれば、わざわざ信長の家臣に「御執り成りし」を頼む必要もないはずだし、太刀や馬などを献ずる必要もありません。

小谷城跡

さて、このようにお市の方の奥入れを永禄10年の末か翌11年の早々と考えると、先の遠交近攻策型の同盟の政略結婚ではなくなります。

さらには永禄10年8月には、美濃の稲葉山城の斎藤隆興は信長に討たれ、戦国大名としての斎藤氏が滅亡しています。

美濃までは織田氏の領国になったわけで、したがって織田領美濃と浅井領近江の国境を接する近国同盟ということになります。

浅井長政に嫁いだお市の方は、長政の居城小谷城にちなんで小谷の方と呼ばれるようになり、たて続けに3人の女子、2人の男子を生んでいます。

もっとも、長女の「茶々」、有名ですよね、即ち、のちの秀吉の側室となる淀殿が生まれた年を永禄10年(1567)とするのはどうであろう。

元和元年(1615)に49歳で没したというのだから、逆算すれば永禄10年誕生になってしまいます。

先にみた通り、お市の方の奥入れは永禄10年ないし11年だから、すぐに懐妊して出産しても、永禄10年というのはあり得ない。

多分、淀殿の年齢に問題があるのではと思います。2男3女といっても、長男万福丸については、側室から生まれたとする説があり、5人すべてをお市の方が生んだとは限らないようです。

2、3年は平和な時が続きましたが、元亀元年(1570)、信長が越前の朝倉義景を攻めたとき、長政は信長に反旗をひるがえしました。

長政の裏切りを知らせるため、越前にいる信長の陣中に両端をひもで縛った小豆を送ったというエピソードが残されていますが、これは後の創作のような気がします。

たしかにこの時、信長はあやうく袋のねずみになるところでした。命からがら逃げ帰った信長は、あらためて陣容を整え、今度は浅井長政を攻めました。

こうして姉川の戦い、さらに天正元年(1573)の小谷城総攻撃と続きます。

その結果、長政は自刃し、浅井氏は滅亡しました。小谷城落城のとき、お市の方とその3人の娘は秀吉に助けられ、信長のもとに送られ、信長は弟の織田上野介信包にお市の方と3人の娘の養育を命じ、伊勢上野で静かな生活を送っていました。

ところが天正10年(1582)6月2日の「本能寺の変」が、お市の方と3人の娘たちの運命を変えることになりました。



 

■柴田勝家との再婚

柴田勝家の墓

本能寺の変後、お市の方と3人の娘は信包のもとから身柄を移されます。

さて、ここからの定説ですが、羽柴秀吉と柴田勝家によるお市の方争奪の求愛合戦が行われ、お市の方は長男万福丸を秀吉よって串刺しにされたのを恨みに、勝家の求愛を受け入れることになったとされています。

しかし、同年10月6日付けの勝家の堀秀政宛書状によると、この一件は、その年の6月27日に清須城で開かれた清須会議で決まっていたことと考えます。

つまり秀吉は、明智光秀を討ち、信忠の子三法師を前面におしたてて、信長の後継者としての道を着々と築いていきましたが、柴田勝家をあまり刺激させないため、お市の方を勝家に譲ったということです。

こうして、お市の方は政略の道具として、北ノ庄城の勝家のもとに嫁いでいくことになったのだと思います。

しかし、北ノ庄城での新しい生活もそう長くは続かなかった。翌天正11年(1583)、勝家が近江の賤ケ岳において秀吉と戦い、敗れて北ノ庄に退いてきたからです。

秀吉の軍勢が北ノ庄城を囲んだのは4月23日のことで、その時、城内にいたのは200ばかりの軍勢だったと聞きます。

翌24日、城内では最後の酒宴が行われ、勝家は、「汝等が速やかに心を決したる事、また汝等の意思が吾に同じき事を喜ぶ。

唯遺憾とするは現生において予に対する愛情に報いる途なきことなり」(『イエズス会日本年報』)

と短い演説をして、全員が自刃していったと記されています。

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とにかく、柴田勝家との新婚生活は半年しか続きませんでした。勝家はお市の方に城を出ることを勧めたといいます。

しかし、お市の方はそれを拒み、城にとどまって夫とともに死ぬ道を選び、37歳の波乱に満ちた生涯を、焼け落ちる北ノ庄城の九重の天守閣の中で閉じました。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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