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【秋月の乱】に見る幕末の志士たち

【秋月の乱】に見る幕末の志士たち

秋月城の紅葉

こんにちは、ワカマツです。こんにちは。

福岡県朝倉市に位置する「秋月」、春は杉の馬場に代表される桜街道、200本以上もの桜の木が咲き誇り、秋月城址へと続く道を桜色に染めてくれます。

また、秋には黒門周辺のもみじが、目が痛くなるほどの色彩を見せ、周りの景色おも紅色に変え、多くの観光客の足を止まらせ、見る人々の心を魅了していきます。

この秋月は、国指定の重要伝統的建造物群保存地域に選定された城下町で、武家屋敷や城址が大切に保存されていて、通称「筑前の小京都」と名付けられています。

さて、日本の歴史を見るうえで、近代における最大の異変はこの幕末にあると考えます。多くの志士を出したこの時代に、そして、維新という波に乗り遅れた武士たちの不満が、この秋月で爆発しました。

 

■福岡幕末の志士たち

●平野國臣

平野國臣の銅像

明治維新で薩長の後麈を拝すことになった福岡県の諸藩にも、新しい時代の息吹をいち早く感じ取っていた人物がいなかったわけではありません。

倒幕挙兵のさきがけとなった「生野の変」の平野國臣(くにおみ)も、そのひとりでした。國臣の父吉郎衛門は商家の生まれで、足軽の家を継いだにわか侍でした。

その次男に生まれた國臣は、14歳の時に同じ足軽の小金丸家の養子となります。

國臣が勤王に目覚めるのは、24歳の時で、薩摩の北条右門を知った國臣は西郷や大久保、梅田雲浜らとも交わり、志士として育ったことになります。

早くから国学や和歌を学び有職故実(ゆうそくこじつ)に通じていた國臣は、総髪に王朝時代の衣装といった出立で、大中臣(おおなかおみ)と称していました。

文久2年(1862)、島津久光の上京に際して國臣は薩摩藩の尊攘派や浪士らと挙兵、攘夷断行を企てましたが失敗、福岡藩に投獄されました。

しかし、翌年許されて上京、長州の桂小五郎や久坂義助らとともに朝廷から学習院出仕の命を受けることになります。この時が國臣の生涯の中で、もっとも華やかな時期だったのかもしれません。

しかしながらいいことはそう長くは続きませんでした。翌年、七卿落ちで知られる政変で、あっけなくそれも終わりました。

そこで國臣は七卿のひとり沢宜嘉(さわのぶよし)を奉じて但馬生野の挙兵、幕府代官所を襲いますが、またしても失敗、捕らえられて京都六角の獄に幽閉されました。

國臣はこの獄中生活の中で、多くのすぐれた歌を残しています。

元治元年(1864)に「禁門の変」が起きると、幕府はそのどさくさに紛れて、まだ刑が決まっていない國臣を処刑してしまいます。享年37歳でした。

この年は維新史上もっとも重要な転換期でした。薩長連合が成り、王政復古が決まった年でもあります。いま少し生き延びていたら國臣は維新の元勲になれたのかもしれません。

福岡市の西公園に建つ國臣の像は、彼の志を阻んだ佐幕派の福岡藩を呪うがごとく、城の方角を見つめています。

國臣はおのれの志を遂げるために薩摩藩に期待を寄せていましたが、さの薩摩人にとって國臣は、よそ者の軽輩でしかありませんでした。

國臣はそのことを、どの程度察知していたのでしょうか。

わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば、けむりはうすし桜島山

というあまりにも有名なこの歌が、ひどくもの哀しいものに思えてきます。

 

●真木和泉保臣

福岡藩に隣接している久留米藩にも、平野國臣のような悲運の志士がいました。その名は真木和泉保臣(まきいずみやすおみ)。保臣も國臣のように早くから国学や和歌に親しみ、久留米藩内に尊攘派(天保学連)を結成していました。

水天宮の祭神は、源平合戦の犠牲になって壇之浦で入水した安徳天皇と建礼門院です。11歳で父を失い、家業を継いだ保臣は、安徳天皇を悼む気持ちが武家政治への怒りとなり、建武中興の再現を目指す王政復古運動となっていきます。

ところが嘉永5年(1852)、家老稲次因幡とともに企てた藩政政革も失敗、実に10年間もの幽閉の身となりました。

文久2年(1862)2月16日、追手を振り切り薩摩に脱出した保臣は、島津久光を説得して尊攘討幕に踏み切らせようとしましたが容いられず、上京直後に寺田屋事件でまたしても失敗、再び久留米藩に捕らわれの身となりました。

翌年、許された保臣は、國臣のように学習院出仕となり、長州藩を動かして討幕挙兵を画策しましたが、8月18日の政変で七卿を奉じて長州へ退去、その後の「禁門の変」で悲願空しく、諸藩出身の浪士16人とともに天王山で自刃しました。享年52歳でした。

10年間におよぶ幽閉から世に出たものの、わずか2年の活動に過ぎませんでした。保臣が生涯をかけた王政復古が実現するのは、それから4年後のことでした。

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●野村望東尼

野村望東尼(のむらもとに)も勤王の烈女として知られています。

福岡藩士浦野勝常の三女として生まれた望東尼は、離婚後24歳で同藩馬廻り四百十三石の野村新三郎貞貫と再婚、夫婦で大隅言道に師事して和歌と書を学びましたが、54歳で貞貫と死別、剃髪して城下平尾村の草庵に移り住みました。

そのまま草庵にいたら勤王望東尼は無かったはずですが、文久元年11月に歌集出版のために上京したことが、彼女の運命を大きく変えることになります。

その時、望東尼は56歳になっていましたが、京都で勤王の志士を知った彼女は、女流勤王家として目覚めました。

帰郷後、望東尼の山荘は、筑前勤王党の密会所となり、高杉晋作、西郷隆盛、僧月照らも足を運びました。

とくに元治元年(1864)11月10日から10日間、高杉晋作を山荘に匿ったことは、維新史を語る時に見過ごすことができない事件です。

その間、高杉晋作は西郷隆盛と談合したともいわれ、確固たる証拠は残っていませんが、西郷は大宰府入りした五卿を密かに警固していたとみなされているので、両者の会合はあながち俗説とはいいかたいですね。

高杉晋作は亡命わずか10日間で長州に戻り、壊滅状態だった長州勤王運動を盛り返すことになります。そして望東尼は山荘を去って長州へと帰った高杉晋作に一首を贈っています。

真心を筑紫のきぬは国のため、帰るべき衣手にせよ

慶応元年(1865)、福岡藩の勤王党弾圧で姫島に流された望東尼を高杉が救出したのは有名で、山荘の恩に報いるためだったといいます。

その後、望東尼は高杉の保護のもとで山口から三田尻へと移り住んだが、慶応3年4月に高杉が29歳の若さで病死すると、望東尼もそのあとを追うように、その年の11月6日に波乱の生涯を閉じました。享年62歳でした。

この他福岡県にも維新の活動家が多くいました。加藤司書、月形洗蔵といったぐあいに、すべて志半ばに倒れた悲運の人たちばかりです。

 

■日本最後の仇討「臼井六郎」

慶応4年(1868)5月23日の深夜、秋月五万石の城下町(現、福岡県甘木市秋月町)で、二つの殺人事件がありました。

被害者の一人は漢学者の中島衡平、もう一人が中島の弟子で藩の重職だった臼井亘理(うすいわたり)ですが、襲ったのは部屋住みの年少者で組織された干城隊という勤王の一団でした。

幕末の動乱期、洋風が極度に嫌われていた時期ですが、小倉の高橋正清は洋服を着ていたばかりに、奸賊として博多の箱崎松原で惨殺されています。

秋月藩でも西洋風の兵制を採用しようとしたところ、国風にそぐわないという理由で藩内に反対がありました。臼井亘理の説得でどうにか採用となったが、秋月藩から勤王心を失わせる策謀だと一部から非難を浴びました。

亘理をそそのかしているのは、中島だと言う者もいました。その中で、藩用で京都にいた亘理のもとへ、突然、帰藩命令が届きました。

亘理が秋月に帰ったのは5月23日のことですが、その晩、干城隊50人が二手に分かれ、臼井と中島を襲いました。

亘理は帰国祝いの酒に酔っていました。亘理の就寝中のところへ刺客は踏み込み、山本克巳が亘理の首を切り落とし、そばに寝ていた亘理の妻に萩原伝之進が斬りつけました。

山本と萩原の二人は夫を必死に庇おうとする妻をめった斬りにしたということです。

夫婦には二人の子どもがいました。男の六郎は6歳、妹は4歳でした。暗殺団の全員が謹慎という軽い罪ですんだのは、亘理と対立していた執政の吉田悟助が彼らの黒幕であったからです。

孤児となった六郎は亘理の弟が育て、妹は母の実家に引き取られました。

ところが、六郎は12歳の時に父を殺した下手人が山本克巳ということを友人から知らされます。克巳の弟が、亘理の暗殺を兄の手柄として自慢していました。

六郎はこの時から、父母の仇討をここに誓うようになったのです。

明治9年(1876)の春、14歳になった六郎は、敵の山本が一ノ瀬直久と名前を変えて、東京で裁判所の判事になっていることを知ります。

そこで六郎は遊学を理由に伯父の許しを得て上京、一ノ瀬の勤務先を追って住まいを移し、仇討の機会を狙いました。

明治6年に仇討は法律で禁じられましたが、六郎の決意は変わりませんでした。

その間、六郎は山岡鉄舟から剣術を学び、そしてついに、仇討の日がやってきます。

明治13年12月17日、18歳になった六郎は、京橋三十間堀の旧藩主黒田邸で一ノ瀬を待ち受け、亡き父の形身の短刀で本懐を遂げました。裁判の結果は終身刑。

六郎は士族であったので「改正閏刑律」により罪一等を減ぜられ、死刑をまぬがれました。しかも、明治13年に、出獄が許可されます。禁獄はわずか9年に過ぎませんでした。六郎の出獄を知ったもう一人の暗殺者萩原伝ノ進は、恐怖のあまり発狂したといいます。

六郎はその後、佐賀県鳥栖で商人となり、大正6年(1917)11月、55歳で他界しましたが、家族に仇討のことは終生、口にしなかったと伝えられています。

秋月町の黒田家の墓所のはずれに、臼井父子の墓が寄り添うように並んで立っているのが印象的でした。



■「秋月の乱」と宮崎三兄弟

幕末から明治にかけて、秋月町は何かと事の多いところでもありました。「秋月の乱」もそのひとつで、首謀者であった宮崎三兄弟は明治史を血汐で彩ることになります。

明治新政府が矢継ぎ早に打ち出す西欧化は、失業者士族にとって耐えがたいものでした。勢いがある新政府に対して、国粋保存のの抵抗となりました。

こうした一連の反政府勢力を不平士族の集団とみなす向きもありますが、新政府の墜落も眼に余るものがあったのは確かです。



「秋月の乱」は明治9年10月27日に起こりました。

熊本の敬神党(神風連)に呼応して兵を挙げた秋月党は、豊前豊津(小倉藩)の士族勧誘して長州の前原党と提携を図りましたが、協力を得られなかったばかりか、乃木稀典(のぎまれすけ)少佐の率いる小倉鎮台兵の攻撃を受けるところとなりました。

「報国」と大書した押し立てた二百数十人の秋月党は、鎧胴に鉢巻き、草鞋ばき、腰には大小、手には槍、銃はあっても旧式の火縄銃といった状態だったので、新式の元込め銃を備えた鎮台兵には抗しようもなかった。

無惨な敗北で栗河内の江川谷へ逃れたのは29日で、人数も70~80人に減ってしまい、30日は江川に留まり軍議を尽くしましたが、結局各人その考えるところに従って行動することになりました。

江川に残ったのは7人ですが、その中に主将格の宮崎車之助(38歳)と弟の哲之助(25歳)がいました。いまひとりの主将格である車之助の弟である百八郎(35歳)は、藩主黒田長元の側室今村直子の跡を継いで、今村姓となっていましたが、徹底抗戦を諦め、26名の同士とともに江川を去っていきました。

江川に残った7人は11月1日に自決しますが、一番若かった哲之助がみんなの介錯をつとめました。そのあとで哲之助は燭台の火を消してから腹を切り、それから太刀先に手ぬぐいを巻きつけると両手に刀を握りしめ、首の後ろに刃を押し当て、一気に前へ押し出した。

哲之助の首は咽喉の皮一枚を残して胴を離れ、前に崩れ落ちたといいます。

江川を26名の同士とともに去った今村百八郎は、その後、政府軍と戦いましたが、11月24日に夜須郡山隅村に潜伏中のところを捕らえられ、12月3日に斬罪となりました。

宮崎三兄弟の墓は、秋月町の長生寺にあります。山門をくぐらずに道を左に折れて墓地に入ると、その一隅に小さな墓が三つ並んでいます。

一番年上の車之介は、酒豪だったので、墓のおがみ石に盃が刻まれています。

「秋月の乱」、そして秋月の志士、また福岡で志半ばで亡くなった幕末の志士たち、意外と知られていない福岡の勤王活動家、現代では考えられない波乱に満ちた生涯を記してみました。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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