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江戸時代の独占オランダ交易の背景

江戸時代の独占オランダ交易の背景

こんにちは、ワカマツです

私自身がカトリック教徒であるということを、まずお伝えしておくとともに、現代においては誰もが宗教を自由に選ぶことができ、また、それを批判することは決して行ってはいけないと考えております。

江戸時代の貿易に関する事項を語る時に、キリスト教の布教活動と貿易が密接で、不可欠であったのは言うまでもありません。

この当時の日本ではキリスト教の信仰は、現代でいう新興宗教であり、神道や仏教が当たり前のような日本風土の中で、土着の思考を揺るがし、人々を惑わせる思想として、受け入れられる存在ではありませんでした。

それをうまく利用し対日交易に意欲を示したオランダ(当時のネーデルラント連邦共和国)。

今回は、日本の鎖国政策の中で、オランダがなぜ独占的な貿易が続けられたのかを記していきます。

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🔶オランダとの貿易

長崎県平戸市に復元されたオランダ商館

旧教国であるポルトガルやスペインは、キリスト教の布教活動と貿易は密接な関係がありました。

新教国であるオランダは、これをはっきり切り離し、特に日本においては、貿易重視主義を貫いたので、幕府のキリシタン禁令に触れることはなく、交易を続けられたのでしょう。

禁教政策と貿易統制の徹底を目的とした鎖国は、幕府の支配体制を一層強化し、そしてオランダにとっては、対日貿易の独占を狙い、それが実現したわけですね。

オランダが他国との競争に打ち勝つことができたのは、貿易に対するすべての案件を網羅し、日本に対する利益追求に重点を置いた政策と、他国に対する必要以上の排撃があったためです。

さて、オランダとの日本の貿易は、慶長14年(1609)に、平戸に商館が開設されてことに始まります。

上記の写真は平戸に復元された「オランダ商館」です。



🔶打倒、ポルトガル・スペイン

同じ新教国であるイギリスが、やはり平戸に商館を開いたのは、慶長18年です。

いずれも遅れて来航したオランダとイギリスにとって、すでに実績を積んでいるポルトガルやスペインは、倒さなければならない強力な競争相手でした。

オランダは日本との国交当初から、この二国に対しては完全な敵対心を持っており、最大の攻撃目標でした。

オランダ国執政オレンジ公マウリチウスは、家康に差し出した国書にも、「スペイン、ポルトガルは、ローマ法皇の意思を帯して、日本人を改宗に導き、ついには日本は意のままになってしまう恐れがあります」と述べています。

カトリック教国の侵略的な政策とキリシタンとの密着した関係を説き、危機感と反感をあおりたてています。

🔶加速する対日政策

江戸幕府が発行したオランダとの通商許可書

その後も、機会をとらえては、この種の中傷を続け、元和6年(1620)には、イギリスとの連署で、長文の上申書を幕府に提出しています。

その内容は、ポルトガルとの貿易と朱印船の渡航を禁止するものでした。

朱印船とは、幕府の朱印状(渡航証明書)をもつ大名や豪商らの貿易船です。

キリシタンの宣教師がその朱印船に便乗して来日し、禁令の網をくぐり抜けているのを警告しているものです。

オランダの対日工作は、寛永14年(1637)10月に起こった「島原の乱」にも、かなり効果を発揮しました。

なんとその鎮圧に協力したのですね。

原城に立て籠った一揆勢の制圧に手こずった幕府から、援助を求められたオランダは、この時とばかりに、船に大砲を積んで、原城下に迫り、海上から砲撃を加えました。この事実は意外に知られていないですよね。

幕府にしてみれば、この協力要請は、オランダが本当にキリスト教徒の反乱軍と戦う意思を持っているかどうかを確かめる好機でもありました。

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🔶幕府の複雑な心境の変化

そしてオランダにとっては、まさに踏絵だったと考えます。

島原の乱は終結したものの、幕府に与えた影響は大きかったと思います。

幕府は信仰心の恐ろしさ、宗教と貿易を分離することの難しさを、改めて深刻に受け止めた事件であったことは間違いないでしょう。

寛延16年5月、オランダ商館長クーケバッケルは、江戸に出て、幕府にポルトガル船の貿易禁止を促しました。

これまで再三にわたりオランダの勧告があり、幕府もその必要性を認めていても、ポルトガルとの全面断交に踏み切れない理由があったのです。

もし断交した場合、従来ポルトガルが供給している商品を、はたしてオランダが肩代わりできるかという不安でした。

これに対するオランダの返事は、「十分に対応するから、これに対しての懸念は不要である」と答え、幕府に決断を迫りました。

事実、オランダは、対日貿易の独占を目の前にして、日本への輸出量を飛躍的に増やして実績を示したのです。

そして、2ヶ月後の7月、ついにポルトガル船の来航禁止令がだされ、天文以来およそ一世紀にわたって続いた交流は、ここに終止符を打ちました。

これに先立って、同じ新教国のイギリスは、オランダの圧迫に負けて、すでに日本から撤退していました。

元和8年(1622)、防禦同盟(ぼうぎょどうめい)が解消してから、両国は敵対関係に入り、オランダ艦隊は、たえずイギリス商船を脅かしたので、ついに経営不振から、元和9年には、平戸の商館を閉鎖してしまいました。

また、スペインは、植民地のマニラが、キリシタン布教の策源地であるとして、寛永元年(1624)、すでに通交貿易関係が断絶していました。

オランダはこれらに満足することはなく、さらには中国船の貿易をも締め出そうと画策したのです。

しかしながら、これは幕府が受け入れず、中国貿易はキリスト教とは関係と考え、むしろ、オランダの日本貿易独占によって生じる経済的な圧迫など、その弊害を危惧したのです。



🔶オランダ交易のまとめ

とにもかくにもオランダは、みずからも長崎の出島に隔離されるという犠牲を強いられながらも、(オランダ東インド会社の商館)日本を国際社会から孤立化させることに成功しました。

その後も対日貿易に関しては、オランダにとって有利な体制で維持していきます。

しかし、18世紀にはいって、ロシア・イギリス・アメリカなどの諸国が、次第に日本の海辺に迫ってくると、永年にわたる強固な鎖国体制が徐々に揺らいでいきます。

ヨーロッパ諸国では、フランス革命戦争が勃発し、1793年にオランダはフランスに占領されてしまいます。

世界各地に点在していたオランダの植民地は、すべてフランス帝国の統治下に置かれ、事実上オランダの東インド会社も1798年に解散しました。

オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命し、イギリスはオランダの植民地の接収を始めましたが、この頃の東アジアの制海権はイギリスが持っていたので、フランス国籍の船は入ることができずに、当時のフランスの貿易商は、長崎との交易は中立国であったアメリカ国籍の船を利用していたということです。

黒船の来航とともに、開国への扉が開かれ、やがてオランダ(フランス)との独占貿易の時代は終わりを告げました。

最後に、討幕への勢いは、この貿易にあると考えます。実際には薩摩を始めとして、藩主体で貿易や交流が行われていたことは事実で、時代の流れを早く掴んだ人たちが新しい時代へと導いたのかもしれません。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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