google-site-verification: google7d63d4ae4f776a04.html

キリシタン弾圧、踏絵と島原の乱

キリシタン弾圧、踏絵と島原の乱

こんにちは、ワカマツです。

前回の記事で(江戸時代の独占オランダ交易の背景)の冒頭で、私がキリシタンであるということを書きましたが、もちろん自分が好きで選んだ宗教ではありませんでした。

親がカトリック教徒で、その流れを酌み、ごく自然に生まれたときから、私はカトリック教徒として人生を歩んできました。

母親は長崎県の五島出身で、隠れキリシタンの流れを酌む家系でした。その中で幼いころに洗礼を受け、毎週日曜日に教会の礼拝に通い、またそれが当たり前の生活だと思っていたのです。

ただ、学生のころは自分の宗教感などという志向はまったく持っておらず、また、人生においてもそれを表に出して主張したこともありませんでした。

歴史を学ぶ上で色々な宗教が存在しています。当然のことですが、日本の歴史の中で、江戸時代に行われた、特に九州中心に弾圧がひどかった「キリシタン弾圧」の歴史を振り返る時、そんなに宗教心が深くない私でも心が痛む思いが蘇ります。

今まで仕事として長崎の雲仙を何度か訪れていますが、今でも、雲仙小地獄をみると長崎奉行がおこなった、人間とは思えない地獄絵図が頭を過ります。

あまり自分のことを書いても仕方がないのですが、今回はキリシタン弾圧の中で「踏絵」について、そして宗教を全面的に掲げて戦を起こしたとされている「島原の乱」、その中で、カトリック教会の見解について記していきます。

スポンサーリンク



◇江戸時代のキリシタン弾圧の世界

■踏絵とは?

踏絵

踏絵とは、江戸時代にキリシタンの摘発、または背教のしるしとするため、信仰の対象として崇拝している聖画像を踏ませてことをいう。と関係資料の冒頭に書かれています。

厳密な言い方をすると、元来、聖画像を踏む行為のことは「絵踏(えぶみ)」といい、絵踏の道具として用いられた聖画像のことを踏絵といいました。

だから、関係資料類には「絵踏いたさせ」とか、「踏絵を踏ませ」等のように言葉を使い分けて用いてあります。

いつ頃からは分かりませんが、絵踏行為も踏絵というようになり、長崎をはじめ九州の絵踏が制度化された地域では、絵踏行事全体を「踏絵」と総称するようになったわけです。

■踏絵はいつ、誰が考案したのか?

踏絵は、人間の良心を踏みにじる、非道な精神的拷問として悪評高かったのですが、誰がこのような拷問を考案したか、ということは歴史上確定的なことは分かっていません。

たとえば、フランスの宗教史家シャールウォアが、その著書『日本史』(1765)で踏絵に触れ、こういうことを記しています。

私はここにオランダ人がその発案者だということには何の証拠もないということを知らせることができるのを大変嬉しく思っている

と記していることから、当時、オランダ人発案説流れていたということが読み取れますが、同時にそのことが不定されていることも知ることができます。

また昭和に入り、レオン・パジェスが『日本キリシタン宗門史』に「背教者は、足に踏ませてキリシタンを発見するために十字架を寺の敷地においた」と、クリストヴァン・フェレイラ、すなわち沢野忠庵について記したことから、沢野忠庵発案説があります。

このクリストヴァン・フェレイラという人物は、ポルトガル出身のカトリック宣教師で、イエズス会士でしたが、日本において拷問によって棄教し、沢野忠庵を名乗ってキリシタン弾圧に協力したといわれています。

クリストファン・フェレイラと表記されることもありますが、遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとして知られ、また長与善郎の小説『青銅の基督』にも登場する人物ですね。

しかし、これもフェレイラの背教は寛永10年(1633)であるのに対して、絵踏の開始はそれより早い寛延5年に想定されているので疑問が残ります。



■踏絵に関する史料と一般的な定説

踏絵のイラスト

このように、絵踏の直接の考案者については、明らかに明記している史料が見つかっていませんが、絵踏が長崎でいつ頃、どのようにして、開始されたかということについては、長崎旧記類に散見されているし、宣教師の報告書にも記されています。

長崎旧記類は、寛文3年(1663)の長崎大火以降の編纂書で、絵踏に関する根本的な史料ではないため、決定的な決め手にはなりません。

しかし、これらの史料をもとに総合して絵踏開始については次の推論が一般的に用いられています。

●踏絵はキリシタンを転んだことの証明として、寛永5年、長崎奉行「水野河内守」が長崎で実施したのが最初であったこと。

●そのとき、道具として用いた踏絵は、紙地の聖画類と鋳物の聖物であったこと。

●寛永6年、長崎奉行「竹中采女正重義」は、キリシタンから没収した鋳物のメダリオンやブラケット類を板にはめて、板踏絵をつくらせて広く諸人に踏ませたとのこと。

●寛文年間、キリシタン検索が激化すると、紙絵は破れ、板踏絵だけでは不足したので、寛文9年、長崎奉行「河野権右衛門」は、本古川町の祐佐に命じて真鍮踏絵20枚をつくらせたこと。

正直、踏絵開始時期を寛永5年と考えることについては、若干の問題があると考えます。

なぜならば、宣教師の報告書で絵踏の事例について述べた最初の記事は、寛文8年雲仙地獄の拷問を受けていたカルウァリョ神父が聖像を踏むことを強制された時であるので、その間に長崎で絵踏が行われたとすれば、なぜ宣教師の報告に記されていないのか、という疑問があるからです。

■その後の踏絵制度とまとめ

長崎奉行「水野河内守」の着任以来、迫害が激化した長崎において、絵踏はキリシタンたちに背教の証として強要されるようになり諸藩にも徐々に広がっていきます。

他地方にも広がったとはいえ、現在残っている絵踏の初期の記録は散発的なので、通常、一般化したものではなく、その時、場所の事情によって行われていたと考える方がいいでしょう。

しかし、寛永18年ごろからは、絵踏はキリシタンでないことの証拠とされるようになり、宗門改の制度化に伴って絵踏も制度として実施されていきます。

但し、九州以外の地では、制度として絵踏はおこなわれてはいませんでした。

こうして絵踏は、効果的なキリシタン検索の手段のひとつとして、江戸時代を通して行われていきます。

嘉永6年(1853)、ペリーの来航を機に訪れた時代の転換と、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの進言によって、安政5年(1858)をもってようやく廃止されました。

しかし、それは長崎奉行管内に限られていて、他の九州各地では明治4年の「新戸籍法」の発布まで続けられています。

絵踏は宗門改と相伴うものであり、宗門改帳は戸籍簿と絵踏台帳の役目をはたしていたからです。

尚、長崎奉行所で用いた踏絵10枚と真鍮踏絵19枚が国の重要文化財に指定されており、現在も東京国立博物館に所蔵されています。

スポンサーリンク



◇島原の乱に見るカトリック教会の意義

■島原の乱とは?

原城跡

学校でも概要的なものは学んだと思いますが、改めて簡単に「島原の乱」について簡単に説明させていただきます。

島原の乱とは、寛永14年(1637)10月、島原・天草の農民が呼応して蜂起、2万4千人余りが原城に立て籠って、12万人余の幕府討伐軍と戦いましたが、翌年2月に原城陥落、一揆軍が皆殺しされた大事件をいいます。

ここでこの島原の乱は、一般的に「天草四郎時貞」を筆頭に、宗教戦争のように描かれていますが、ことの発端はそうではありませんでした。

この戦いのおおもとの性格は、元和2年(1616)より、島原領主となった「松倉重政・勝家」父子と、天草を領していた「寺沢堅高」の重税と苛政に対する不満が爆発した農民一揆だったのです。

ところが、参加した農民の大部分がキリシタンであったがために、農民の蜂起を扇動し、一揆の指導権を握ったと考えられている小西の浪人たちは、天草四郎を擁立して乱徒を組織し、団結の力にキリシタンの信仰を用いたのです。

まさに、キリシタン信仰が時世の中でうまく利用されたわけです。



■乱に対する幕府の制裁と見解

島原の乱に対する江戸幕府の見解は、「政道よろしからざる͡故」に乱が起こったと発表しました。

「乱」とはいわゆる謀反の位置づけですが、江戸時代に入り、徳川政権は諸藩に対し所領内で、必要以上の年貢や他の加税を加し、それがもとで領主間の争いや土豪一揆を併発した場合は、反乱軍の鎮圧を対前提とし、また同時に領主を処罰の対象とする、という考え方がありました。

この島原の乱が起こった時も、松倉勝家を斬罪に、寺沢堅高から天草4万石を没収する制裁を行っています。

そしてその一方では、島原・天草の乱をキリシタンの大乱であると位置づけ、「キリシタンは国を奪う逆賊である証拠」として宣伝し、打倒キリシタンの旗を大きく掲げて原城制圧に乗り出していきました。

史学上、島原の乱を土豪一揆として分析したり、キリシタンによる宗教一揆として意義づけようとする見解もあったりして、この乱に対する見解は大きく二つに分かれていますが、いずれにしても、カトリック教会が島原の乱の戦死者を「殉教」と認めないことについては今も昔も変わっていません。

■乱の戦死者がなぜ「殉教」ではないのか?

「殉教」とは、文字どおり自分が信ずる教えのために命を捧げることですが、カトリック教会で「殉教」と認める場合は、死ぬことだけではなく、その他いくつかの条件を必要とし、その条件に欠けていると必然的に「殉教」と認められないわけです。

ここで私がカトリック教徒として集めた資料をもとに、この「殉教」という言葉がどのように教えられたかを記していき、解答にしていきたいと思います。

また、私的感情論ではなく、あくまでも史学的見地から見出すもので、カトリック教会の意義を尊重したものとします。



■「殉教」に対するキリスト教会の見解

原城跡

日本にキリスト教が伝えられて、まだ半世紀にもならない天正15年(1587)、秀吉の禁教令が発布され、早々日本に厳しい迫害が起こることが予想されたので、宣教師たちは「殉教」についての覚悟と準備を信徒たちに教えています。

その一環として殉教に関する書物がいくつか出版されたと、宣教師の手紙に記されています。

実物は現在に至っては存在していませんが、幸いにもそのような書物の写本と考えられるものが残っていて、内容が知ることができます。

寛政2年(1790)、浦上村(現長崎市内)で表向きは仏教徒を装いながら、密かに信仰を守り続けてきたキリシタンが検挙される事件(浦上一番崩れ)が起こった時、長崎奉行所が没収した「寛政没収教書」という文書集で、その中に「殉教」に関する文書が3点含まれていました。

姉崎正治博士が『切支丹宗門の迫害と潜伏』(同文館 大正15年刊)にこの文章を載せて紹介、「マルチリヨの艦」・「マルチリヨの勧め」・「マルチリヨの心得」と名付けています。

マルチリヨ(Mart-irio)、ポルトガル語で殉教という意味であり、殉教者(Martir)で、文書本文では「丸血留」と書いています。

このうち「マルチリヨの心得」は、迫害の時「殉教」となることについての実際的教訓であり、「殉教」であるための基本的三条件を挙げています。

第一は死ぬことである。「・・・・・縦(たと)ひ亦百苦千難を凌ぐといふとも死せざる間は、丸血留にず・・・・・」。

第二は死を甘んじて受けること。「知恵分別ある者ならば、其成敗をいやがりて死するに於ては丸血留に非ず」。

第三は死の理由がキリスト教の信仰や道徳のためであること。「死罪に行はる題目、キリシタンなりとて成敗せらるるか、亦は善を勧むるとてか、悪をせざるとて害せられば、是も丸血留なり」。

そして、さらにこの三条件を基礎にして、具体的な「殉教」となる場合、ならない場合を記していますが、その中に、「キリシタンなりと成敗すべきに、ふせぎ戦ふことは叶はざるなり。若し彼者、防ぎ戦ふと雖(いえ)も、終に叶はずして打たるるに於いては丸血留にてはあるべからず。其故はデウス(神)に対し奉りて心能く死せざるに依るなり」とあって、武力抵抗は「殉教」にならないこと、「殉教」は神のために喜んで受ける無抵抗の死でなければならないと教えています。

スポンサーリンク



■島原の乱まとめ

これでお分かりになったと思いますが、島原の乱の戦死者は「殉教」にはならないということです。この乱は明らかに武力蜂起であって、無抵抗の死ではないということです。

この「殉教」に条件に対するカトリック教会の教えは、キリシタン時代も現代も変わってはいません。

信仰弾圧を理由に武力抵抗することは、根本的にキリスト教の教えに反することであるから、一般に「キリシタン一揆」なるものはあり得ないし、また、同じ理由で、キリシタンが信仰の故に一揆を起こしたと仮定した場合でも、その行動に宗教的価値を認めることは不可能なのです。

■追記記事

2020年2月14日(金)島原の乱についての記事が出ていました。

上記の写真は、今回発見された島原の乱の原城陥落直後の絵図とされています。

幕府軍の主力だった熊本藩が作成した包囲図であることが確認されていますが、現存する多くの絵図が後世の作成とみられる中で、同時代に描かれた貴重な資料だと説明しています。

絵図『肥前国有馬城之絵図』と呼ばれており、縦151cm、横130cm、熊本大学が所蔵する熊本藩筆頭家老・松井家の文書群約3万数千点を調査していた同大の永青文庫研究センターが確認したと報じています。

これは凄いものがみつかったな、という思いですね。

今までの絵図ではわからなかった部分が繊細に描かれています。ほかにも絵図や資料が見つかっているみたいなので、島原の乱の定説が少し変わるかもしれません。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※ブログ内の記事はこちらからどうぞ。



※「旅ブログ」も見てくださいね。